栄華の夜に
目まぐるしく過ぎた時間に疲れ果ててか、新居初日の夜は隣に悟さんという存在がいるにも関わらず、意識を失う様に夢路を辿った。そのせいか、朝は早くから目が覚めてしまい、寝ぼけ眼で周囲を見渡したときに彼が近くにいて驚いたものだ。
悟さんは未だに疲れているのか、はたまた時間が早すぎるからか、静かに寝息を立てており起きる気配がない。待っていてもすることはないので、隣を起こさないようにそっと起き上がり、昨夜枕元の近くに立て掛けてもらった松葉杖を手にする。
実家は布団で寝起きをしていたので立ち上がるのにも介助が必要であったが、ベッドに寝ていたらそういったものも必要ないことに少しの感動を覚えた。そうして、1人で静かに立ち上がり、寝室を出てからリビングへと向かう。部屋の名称等も昨日悟さんに教えてもらったので、記憶をなぞるように脳内で復唱していくのである。新しい知識が多すぎて、昨日から少し混乱しそうになっていたので、こういったひとりの時間に復習するのは大切な事だ。
リビングに入ると、女中の一人が部屋の掃除ついでなのか、植物に水をやっている。私が入室したことに一瞬驚いて、慌てて手を止めてお辞儀をした。
「奥様、申し訳ありません。直ぐに下がりますので」
「大丈夫ですから、そのまま作業を続けてください」
先程部屋を出たときにもどこか遠くで人の行き交う微かな音が聞こえていたが、やはり私の起きる時間が早すぎたらしい。彼女の声を遮るようにして、作業の再開を促す。しかし、彼女は多少の当惑を見せてしまったではないか。
「何処か空いている部屋に移動したほうがよろしいですかね……」
「そんな! すぐに準備しますので、奥様はあちらのテーブルにおすわり下さい」
慌てる彼女に誘導されつつ、本当に気にせず作業を続けてほしい旨を伝えると、応諾した彼女に笑顔を向けた後静かに辺りを見回すことにした。広いリビングの一部には大きな摺りガラスの窓があり、どういう訳か朝日が差している。広い部屋をまじまじと見回していると、先程の女中に言われてか、別の方がお茶を持ってきてくれた。
「余り眠れませんでしたか?」
そう言って声をかけてくれる彼女には、仕事を増やしてしまったようで申し訳ない思いと共に、苦笑を浮かべてそうではないと否定をする。
寧ろよく寝入った方だと思う。意識が薄っすらと浮上したときに、いつもは傍に無い人の気配や、部屋の雰囲気からつい目を覚ましてしまったのだろう。取り留めもなく理由を並べながら、手元の温かいお茶に両手を添えた。早朝の未だ暖まりきらない部屋の中で、ほっと一息つく瞬間である。
少し息を吹きかけて、一口飲み込んだ時、見計らうかの様にリビングの扉が開いて白色が顔を出す。これまた早いお出ましに、周りの侍女たちは急いでお辞儀をして朝の仕事を切り上げるために動き出した。そんな彼女たちにおはようと返しつつ、此方を見てにっこり笑う悟さんは、自然な動作で私の向かいに腰を下ろす。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶のすぐ後には、悟さんの前にも温かなお茶が運ばれ、二人でゆっくりと味わう。まるで昨日までもそうして居たかのような居心地の良さが、部屋一面に広がった。
「早いね、いつもこの時間? それともやっぱり慣れない?」
「今日はたまたまだと思います。昨日も寝るのが早かったので」
「そ、ならよかった……いや、良くないか、一緒に寝ててなんとも思われないのはヤバいでしょ」
最後は独り言のように呟き始めた悟さんにクスリと笑みがこぼれる。私の反応がお気に召さないのか、悟さんはわざとらしいため息をつくのであった。
「まぁいいや、それよりちょっと早いけどご飯でも食べる? もう少ししたら冴さんも来るとは思うけど」
「そうですね、先にご飯を食べましょうか。悟さんは今日ご予定無いんですか?」
「無いよーって言いたいけど、午後からあるんだよねーこれが、ほんっと人使い荒いったらないよ。引っ越しの次の日位休ませろっての」
傍に来た侍女に手際よく朝食を頼むと、再度お茶を飲みながら愚痴を溢す姿に苦笑する。きっと上層部が無茶を言っているのであろう。出来る事なら私としても、今日ぐらいはゆっくり過ごして貰いたかったのだが、呪術界最強術師ともなれば無茶振りでなくとも引く手数多であることは想像に難くない。
「今日は帰ってこられないんですか?」
「寂しぃ~? 帰ってくるよ、遅くなるかもしれないけど」
揶揄い交じりに返された答えに、此方も笑いながら寂しいので待ってますねと返しておく。遅くなったら先に寝とくんだよと返されたが、私にできることは悟さんの無事を待つことぐらいなので、今日はゆっくりと帰りを待ってみようと頭の隅に留めておいた。そうこうしているうちに、調理場に続く扉が開いておいしそうな匂いが漂う。
今日はご飯とわかめと豆腐のお味噌汁、それに鮭と小鉢にほうれん草のおひたし、小皿にはお漬物もある。私の家からの使用人が多くを占めるお陰か、手前に置かれた食事の量はどれも少なめである。丁度良い塩梅に、心配りが垣間見えてそのことにも感謝を感じながら手を合わせて鮭を一口口に含んだ。美味しい。一方で、対面に居る悟さんは同じように手を合わせた後、数秒こちらを見つめて固まってしまった。丁度、鮭を咀嚼して前を向くと視線がぶつかる形である。
「どうかされました?」
「……名前、それで足りる?」
彼の前には、私の倍に近いご飯が並んでいるのだから、その疑問は致し方ないのかもしれない。しかしながら、悟さんの食べている量もきっと平均よりは多いように見えるので、相対的に私の量が殊の外少なく感じるだけなのだ。
「普通より少し少ないだけで、いつもこれぐらいですよ」
「だからあんなに軽いんだって、もっと食べな」
その言葉に昨日の”お姫様抱っこ”が思い出されて、顔に少し熱が集まるのを感じた。
「ふ、普通です。それに私は余り動けないんですから、これぐらいで丁度良いんです!」
えー……と抗議の声をあげながら自身も朝食に手を付ける悟さんは、拗ねた子供の様である。子供の様なだけであるので、抗議は聞き入れる事は出来ないのだが。
その後も他愛のないやり取りをしつつ、朝食の時間はゆっくりと過ぎて行くのだった。
□ □ □
「さて」
朝食を食べ終わり一息、といった雰囲気の中で、仕切り直すような声が聞こえてきた。勿論、音源は目の前の悟さんからであり、どうされたのかと視線を向けると楽しそうに顔の横で両手を合わせているではないか。
「何がしたい? 今は六時過ぎだから昼前まで何でもできるよ」
「そうですね……では、お話がしたいです」
にっこりと微笑み返すと、想定外の答えだったのか、悟さんは一秒ほど固まってしまった。悪戯が成功した気分である。
「今更お互いを知りましょうって?」
「それも良いんですけど、昨日の約束を思い出したのでそのお話が気になってしまって」
昨日悟さんが言っていた結界についての話を思い出したのである。こうして広い範囲で過ごせていることは、本来であれば在りえない話であり、どうして今も呪霊に襲われずにいるのか気になっていたのだ。
今更何をと言いたげであった悟さんも、私の返しにそういえばそうだったと――忘れていたようであるから、彼にとっては重要な事ではないらしい――手を叩いている。悟さんらしいなと笑みが零れてしまったのは致し方ない。
「じゃあ、次いでだし昨日行けなかった部屋にでも移動しようか」
寝室近くの六畳間、和室の部屋に案内された瞬間に入り口で立ち止まる。隣にいる冴に目を向けると、柔らかい笑みを返されるだけであった。
「どう?」
先導していた悟さんから声を掛けられ、再度視線を戻すとニヤニヤとした笑顔をこちらに向けている。
「……ありがとうございます?」
混乱して語尾が疑問形になってしまった。それもそのはず、この部屋は実家の私の部屋そのものだったからだ。移築したのかと思うほどで、文机なども揃っている。
「あれ? 冴さん、名前喜んでないみたいなんだけど」
「奥様は驚かれているだけですよ」
拗ねている悟さんに笑ったまま説明しつつ私を室内へと誘う冴は、こうなることも予想の範囲内であったらしい。もう一人来ていた女中にも誘われるままに、座る準備をしながら、弁明の言葉を直ぐに探した。
「すみません、本当に驚いてしまって……わざわざ部屋を作ってくださったんですね、ありがとうございます」
「前の部屋みたいに奥に水場があるわけじゃないけどね。新しい場所に慣れなかったら困るかなって」
言いながら座りかけた悟さんはしかし、此方に目を向けて椅子を用意しようかと心配そうな顔をする。
「少しお時間頂ければ大丈夫ですよ」
呪われた脚は、つま先から膝の中ほどにかけてが黒くなっており、関節部分を直ぐに曲げ伸ばしすることは難しい。但し、ゆっくりと曲げればある程度までは曲がるのである。脚の可動域が少しでも制限されて行かないように、たまに動かすことを心掛けているのだ。
冴に向き合うようにして肩に掴まり、松葉杖をもう一人の女中に預ける。そうして、冴に支えて貰いながらゆっくりと横座りの姿勢をとり、広がりすぎている左脚をぐっと引き寄せる。
「痛くない?」
素直な疑問として私に問いかけてくる悟さんには、安心させるように大丈夫だと返す。いつもの事なので慣れたことである。
「それにしても本当に凄いです。この文机もどうされたのですか?」
「家具は全部あっちから持ってきちゃった」
「そうだったんですね」
感慨深く見つめていると、いつの間にか冴達も退出した空間に悟さんの柏手を打つ音が響いた。
「さてと、部屋も気に入ってくれたみたいだし、本題に移ろうか」
真剣みを帯びた顔に、スッと空気が引き締まるのを感じる。
「始めに、一応言っておくとこの屋敷内なら何処でも行けるってワケじゃない」
指を一つ天に向け乍ら、先生の様に語りだす悟さんに、此方も居住まいを正した。
「もしかして、朱色の柱……ですか?」
「その通り! 昨日見えてたかな。あれを越えることは出来ないからその内側でしか生活できないんだよね」
「それでも十分ですよ」
これまでの生活を考えると、劇的な変化だ。
この屋敷には離れや使用人さんたちの住んでる建物も別にあるが、勿論そちらにも行けない事も続けて説明される。
「で、早速種明かしだけど……名前ってその呪いを少しでもマシにしようとして、毎日コツコツ紐編んでたでしょ」
突然の話に少し息を飲んでしまう。
“紐”というのは、彼をはじめとする友人たちが学生の頃に渡した”組紐”の事である。あれは少し特殊な編み方と紐を使用したものだが、それとは別に幼少の頃より日々組紐を編んでいたのだ。
というのも、脚にある呪力を少しずつでも意識的に別のモノ――この場合は組紐――に呪力を移すことで、総量を減らせるからであった。減らせると言っても微々たるものであろう。しかし、将来の事を思うと日々続けることで多少なりとも解呪が一日でも早まればと思っている。
何よりこれは歴代で行ってきたことで、作られた組紐も別の用途として使用しているのだ。主に、天元様の結界の能力を増幅させることが出来るのである。
「確かに、編んでいたものを使用すれば多少なりとは範囲を広げることが出来るかもしれません。しかし、これだけの広さとなると”隠す”こと自体が難しくなります」
そう、以前の部屋の周りを囲っていたものもそうして作られた組紐の一部も使用されていたのだが、あくまで補助としてのものだ。
「まぁ、普通はね……例えば、中に居る人物が作ったものだけで囲ったらどうだと思う? 相性はいいわけだ」
「隠す対象である私と馴染むから……ということでしょうか? 分からなくはないですが、それにしても厳しいのでは」
「そこはやり方次第ってやつかな」
言うや否や文机に近づいて、勝手知ったる様に引き出しを開けると、そこから紙と万年筆を取り出した。
そうしてスルスルと書かれた絵は簡単な家とその上に突き出た棒、その棒を繋ぐ線が描かれている。そこまで描かれて成程と理解が出来てしまった。つまり。野外の目立つ場所に私が組んだ組紐を所定の範囲が入る様に囲むことで、普通に屋内で使うよりも更に能力が底上げされると言うことであろうか。
しかし、本当にこれだけでいいのか。何より私が作った量が足りない気がするのだ。作成した組紐は使用用途があるため、高専などに送っていたのである。使用者は呪術師というより補助監督という役割の方々だと聞いているが、その方々が結界術を使う際に少しの呪力でも容易に結界術が使用できるようにとの狙いがある。勿論着けなくても問題はないらしいが、身に着けるだけである程度の期間は使えるものであるため、昔から重宝されていたのだ。
私は日々組紐を組むだけであるから、後は冴達に渡していたが、婚約が正式に決まってからでも実家程の状態を保てるまでの長さがあったであろうかと考えてしまう。未だに眉間に皺が寄っていたのか、考えこむ私をみて悟さんは得意げな笑い声を漏らす。
「フッフッフ、まぁこれに関しては冴さんに感謝するけど、名前が作ったものを全部上に渡してたわけじゃなかったみたいだよ。かなり制限しながら渡してたみたい。それと、僕もかなり前から結婚には前向きに動いてたからね、学生の時から組紐は大切に仕舞われてたってこと」
はぁ……と感嘆が漏れてしまう。いつの間にか色々な方が動いていてくれたらしい。きっと両親もなのだろう。
「それで、溜めに溜めた紐を家の基礎とか壁にも仕込んでるから範囲は広くても前と同じで安心して暮らせるっていうね!」
なんと、驚きである。上空に飽き足らず、屋内にもちゃんと組紐が張り巡らされていたらしい。であれば、昨日からの謎は全て解けたも同然だ。目の前で輝かんばかりの笑顔と顔に添えられたピースに、笑いではなく感嘆の声をあげそうになったほどである。
「安心した?」
此方を伺う様な目にこくりと頷き、お礼を述べる。いつからか、今となってはもうわからないが、悟さんや冴をはじめとして周囲の人たちに助けられて今があったのだ。
「本当にありがとうございます」
「嬉しくて泣いちゃう? ま、この方が僕としても過ごしやすいしね」
何処か揶揄いを交えながら遠くを見る悟さんは、何か憑き物が落ちたような、或いは一息ついたような雰囲気が垣間見えた。
「さーてと、他に何か話したい事ありますかー」
だらりと体を投げ出した悟さんは、幼さを覗かせてくる。その姿につい笑いが漏れてしまうが、それを咎めるような目線が向けられたので慌てて居住まいを正した。
「すみません、私が言い出したんですものね。では……最近硝子さんはどうされてますか」
「待って待って待って、何でここで硝子の話でてくるの?」
「最近会えていないな、と思いまして」
勢いにたじたじになってしまうが、結界術について気になっていただけなので他の話題が急には思い浮かばなかったのだ。雰囲気でそれが伝わったのであろう、ジト目で此方を見つめながら元気だよと答えてくれる彼から目線を逸らしつつまた会いたい旨を伝えておく。
ぽつぽつと、ふざけた話や取り留めの無い事をつい話し込むこと数時間。ふと時計を見ると、お昼近くになっているではないか。
「悟さん、そろそろお時間が」
「はー、もうそんな時間か」
よっこいしょと立ち上がる悟さんに倣って立ち上がるために、外に控えてるだろう冴達に声を掛けようとしたが、それを大きな手で遮られてしまう。
「ここでいいよ、行ってきます」
意を汲み取って、三つ指をついてから行ってらっしゃいませの言葉をかけると、さらりと頭を撫でる感触があった。おやと思って顔をあげると、既にそこに悟さんの姿は見当たらず、女中だけが部屋の外に見えているばかりである。
最近頭を良く撫でられる気がする、ぼんやりとそんなことを考えて先程のぬくもりに手を添えた。