マドラムの灯台

マドラムの灯台


「悟くん」

彼女――名前――は俺のことをそう呼んで、よくにこにこと話しかけてきた。

傑のことは「夏油くん」、硝子のことは「硝子ちゃん」

硝子はわかるが、傑は未だに名字なので、優越感があった……それは事実だ。
だが、そんな優越感もそれだけで、特に恋愛感情というわけではなかった。
そんななか1年が過ぎ、2年になって直ぐのこと……ある日の夕方近くに俺は見てしまった。

その日、校庭の近くのベンチに、傑と名前がならんで座っていた。
しかも、なにやら二人だけで話し込んでいるようで、たまに名前は傑の耳元に手を寄せて恥ずかしそうにこそこそ話している。

此方は校舎内で、二人の背後だから見えているなんて思ってもいないだろう。

しかし、咄嗟に隠れた。
隠れてしまった。
条件反射だ。

そこからの俺の脳内は、未だに名字で呼ぶ傑こそが特別で、二人は付き合っている無いしは名前が片思いしているのだという事実を弾き出し、途端に惨めな気持ちになった。
と、同時に、何とも言えない靄が心を侵食する。


これは、嫉妬だ。

今まで形を成さぬ感情が、預かり知らぬところで育ち、こんなものをトリガーに顔を出すとは。



―…さらには相手には想い人が既にいたという訳だ。

傑作だなと独り言ちて、足元から冷ややかなものがせり上がり、静かにその場から離れるしかなかった。


その後の気分と言ったら最悪で、糞を吐きだめた心の内をどこにぶつけようかと沸々と思考を巡らせていた。
そのまま、傑にも名前にも会える気分でもなくて夕飯の時間を過ぎるまで部屋に引きこもるほかなかったのである。


そんな時だ。


コンコンとドアを叩く音がする。

「悟くん~?大丈夫?」

夕食も終わるだろう時間帯に、名前の声が聞こえてきた。
今一番聞きたくない声だし、お前は傑と仲良くしてろよ……と悪態しか出てこない。
尚も俺を呼ぶ名前は、どうやら食事に来なかったことを心配している様だ。

先程まで溜めていたものが、どんどんあふれ出すのがわかる。
今日は厄日だ。そう思いつつ、静かに立ち上がって、ドアを開ける。

そこには、こちらを少し見咎めて、直ぐに破顔する名前がいて尚更腹立たしさが募った。

「良かった、晩御飯食べに来なくて心配したよ……さっきから携帯に連絡入れてたのに反応ないし……」
そういえばここ数時間携帯を開いていなかったな……と思い至る。
「夏油くんからも連絡して貰ってたんだけど、そっちにも反応無いから倒れてるんじゃないかって心配して……」
「うるせぇな」
「……え?」
「ほっとけよ、俺が体調悪かろうがどうだろうがお前には関係ないだろ?……ハッ、それともなにか?そうやっていろんな奴に媚び売ってんの?」

彼女からすぐに出てくる傑の名前に再度の嫉妬と身勝手な失望を覚えたのは確かだった。
だから、彼女を罵る言葉がスラスラ出てきてしまったのだ。

「わた、し……そういうつもりなくて……」

彼女はそもそも根が優しい。媚ではなく、善意でこういうことを自分以外にもするだろうことは、この1年と少しを過ごしただけでちゃんと理解はできていた。
それでも口から溢れる言葉を止められない。
彼女は必死で両手に力を込めながら、涙を堪えているというのに。

「”そういうつもりなくて”?ならどういうつもりで男子寮にまでわざわざ様子を見に来るわけ?ビッチかよ」
薄ら笑う自分が遠くに見える。最低だ。それ以上言うのをやめろ。
「さとるく……」

のばされた手を、つい払いのけた。

「傑っていう彼氏がいながら、俺にもそうやっていい顔して言い寄るんだ」

やってしまった。
いってやった。

両方の心が鬩ぎ合う。



―……彼女をみると、今まで堪えていた涙をポロリと落とした。


「私、夏油くんとは付き合ってないよ」

しっかりとこちらを見据えて、力強く見つめ返される。先程までの名前とは大違いだ。

「私……私ね、ここに来たのも理由があるの」

なんだかそれ以上はいけない気がした。聞きたくない。



「心配してわざわざ来るのは悟くんが好きだからだったんだよ」



彼女は力強い瞳をしたまままたポロリと涙をながした。

「名前……」
「変な風に勘違いさせてごめんなさい、じゃあね」

駆け足で立ち去る名前を前に前身の血液が逆流していた。

勘違いでとんでもない事をした、彼女を泣かせてしまった。
それと同時に体はすぐに動き出す。
「名前!」

直ぐに追いついてしまう俺に名前は焦って「お願い離して」と暴れる。
そんな名前を抱き込んで、「ごめん」と何度も言い聞かせて自分の部屋に連れ帰った。

扉を閉めて2人して座り込む。
「名前ごめんな……」
「ううん、悟くんの言う通りだよ。私のこと幻滅してたんでしょ?」
そう言って彼女は静かに泣き始めた。

「違う、そうじゃなくて……あー……」
「無理……しなくて、いいのに……」
「無理とかじゃないって、ごめん、最低だけど名前に八つ当たりしたんだよ」
「でも……元々そう思ってたから……さっきみたいな言葉がでたんでしょ?」
「違うってば。ごめんちゃんと説明させてよ」

それからは、彼女の涙をぬぐいつつ背中を摩りながら、今日見た傑との事とこれまでの俺の気持ちをゆっくりと説明した。

「夏油くんはね、私が悟くんのこと好きなのを知ってて相談に乗ってくれてたんだよ」

彼女は少ししゃっくりをあげながらそう言った。
きっと今日は名前にとっても厄日だろう。

しかし、先程から聞き捨てならない事実が俺の頭の中で木霊している。
彼女は気づいていないのだろうか?


「名前、ごめん。ねぇこっち向いて」

名前の顔をそっと両手で包んで持ち上げる。
キョトンとする涙がにじむその顔に、申し訳ないながらこいつ可愛いななんて感想が出てきてしまった。

「勘違いして本当に悪かったんだけどさ……ところで俺、さっきも言ったけど名前のことが好きなんだよね、名前とは両想いみたいなんだけど……この後どうする?」

にこりと笑うと途端に思い出したように理解して「え……あの……えと……」と目線だけでもと必死で外す名前。

もう一度頭を抱き寄せて、耳元で「一応、返事待ってるね」と囁けば「解ってるのにずるい……」と返されて首元にぐりぐりと頭を擦りつけられた。


今日泣かせた分これからは甘やかそうと心に誓ったそんな夜。




後日、傑にはやっとかと呆れられたのはいい思い出だ。