適温な夜です

適温な夜です



リビングは、入った正面にテレビがあり、その横から大きな窓がとられている。窓と言っても外が見えぬようにすりガラスの窓で、その先には縁側を挟んで小さな中庭があるそうだ。そこから取り込まれる温かな光と、庭にある水琴窟の音が心地いい。
そんな穏やかな時間が流れる某日お昼前。この日は悟さんもお休みで、一息つくためにお茶でもとリビングでのんびりとしていた時である。
突然思いついたように立ち上がった彼が、何とは言わず立ち上がって何処かに行ってしまう。
此方が少しの驚きを声にする前に立ち去ってしまった為、戻ってくることを静かに待つしかない。
悟さんが戻ってこない場合は、お昼から組紐を編むことにするかと予定を立てつつ、こくりとお茶でのどを潤した。

少しするとパタパタと足音がして、何やらいくつかの入れ物を手に満面の笑みで戻ってくる悟さんが、子供っぽくてくすりと笑ってしまう。
釣られて好奇心がくすぐられる私は、これから何が始まるのかと静かに待つのみだ。

「今日は映画を観ようと思います!」

幾つかの見慣れない入れ物を前に差し出した悟さんが期待の目をする一方で、普段は聞きなれない単語に一瞬思考が遅れる。
「……映画」
「そう、映画。名前ってこういうの観たことないんじゃないかと思って」
「確かに無いですね」
「でしょ? だから休みの日に一緒に観ようって思ってたんだよねー」

映画というものは、確かに今まで触れたことのない文化だ。
テレビもこの家に来るまで観たことが無かったのだから当然であるが、だからこそどういったものなのかはぼんやりとしかわからない。
きっと悟さんは、こうして少しずつでも経験や知識を新しく与えてくれようとしている事が伝わる。

「それにしても突然でしたね」
「さっき思い出した」

先程までよりは宙を飛ぶような言葉の出し方に、彼が既に持ち寄ってきたモノの吟味に注視しているのが伺えた。
何作品か観るようだが、順番が重要らしい。最後は2作品で迷いつつ、苦渋の決断で「こっち!」という声が聞こえる。
悟さんは含みを持つ笑みと共に、入れ物をパカリと開けて丸いものを取り出し、テレビに近づいていく。

「何というものを観るんですか?」
「ちょっと刺激が強いかもだけど『レオン』ってやつ」

鼻歌を口ずさみつつソファに戻ってくる彼に、此方は疑問符しか浮かばない。大変申し訳ない事だ。
そんな私を知ってか知らずか、悟さんは横に腰掛けつつ、物語の概要を思い出す様になぞって語り聞かせてくれる。

「主人公のレオンは殺し屋で、アパートの隣人のマチルダって女の子と出会うところから物語が始まるんだけどさ」
「殺し屋……」
「そう、だから結構グロ表現あるけど……ま、取り敢えず観てみよ」
「はい」
グロ……とはどういう事だろうか?
疑問は口から出る事はなく、代わりに微かな微笑みと共に返事をしていた。きっと観ている間にわかっていくだろう。
心の中でよしと呟き、観る態勢を整えた。

「でも、観る前にぃ~」
が、その態勢を遮るように横から声がする。
「……観る前に?」
「まずは飲み物と食べ物と名前用のブランケットを用意しまーす」

高らかな声に、私の前のめり気味だった意気込みが空振り、小さく笑い声が出てしまった。
室内は空調が行き届いているが、今日の私の格好を考えてなのだろう。結婚して暫く経って、悟さんから洋服を贈られて着るようになり、偶に着るようになっていたのである。個人的に、余り足の見える面積が増えるのは好ましくないのだが、折角頂いたものならばと試している次第だ。
そうして挑戦した今日は、ワンピースを着ていて脹脛の中ほどから下が露わになっていた。
自分自身では問題はないが、体調を心配してか、一応ブランケットをということらしい。

それを見越した様に、後ろからスッと近づく人影があった。冴である。
「ブランケットは此方を」
「冴さんありがと、あとはコッチでやっときますよ」
「はい、畏まりました」
わかっていますとでも言いたげにクスクスと笑いながら退室していく冴は、何処か見守る姉や母の様で多少の気恥ずかしさを覚えた。

一方で、意に介した様子がない悟さんは、今一度立ち上がり私に声をかけてくる。
「飲み物は何がいい? 僕のお勧めはコーラ」
「コーラ……飲んだことないですね」
「え!? あー、そっか、じゃあ挑戦しよ」
彼にとっての予想外であったらしい内容に、いいねと言いたげな顔が返ってきた。
私までワクワクしてしまいそうだ。
「ふふ、一杯挑戦ですね」
「そうそう、何事も経験ってね~。序でにココアもいれてこようかな」
「ココア! それも飲んだことが無いです」
「よし、決まり! 他にも、おやつは昨日の内にいっぱい買ってきたから任せて」
幼子の目でキッチンの方向へ向かった悟さんを笑い声で見送った。


「わ、これ、口の中がピリピリします」

帰ってきた悟さんは、両手両腕にグラスと袋を携えて満面の笑みであった。
そうして、目の前の机にコトリと透き通る茶色の飲み物を置く。どうぞと言わんばかりの圧を感じて、横でガサゴソと袋を探る悟さんにチラリと目線で助けを送ったが、今度は飲んでみてと声に出して言われてしまったのである。
その結果がこれだ。

「痛くはないでしょ? 炭酸飲料ってそんなもんだよ」

なんてことはないという返答に、本当にこの様な飲み物であることが伺えて、外の世界とはなんと広い事か。再度ちびりと飲み物に口を付けた。

「そうなんですね……ちょっと驚きました」

まじまじと見つめるグラスには、沢山の泡が上へと昇っている。パチパチと小さな音を鳴らす液体は、甘さと刺激をもたらしてくれた。
初めは刺激に驚いたものの、何度か試す内に楽しさと爽快さもあり、少し癖になりそうである。
尚もコーラに夢中になっていると、横から急に声がかかった。

「あ、名前。こっち向いて口開けてー」

突然のことに訳も分からず、あーっという声に合わせて素直に顔を向けて口を開ける。
途端に広がる甘い味。

「おいしい?」
「美味しいです」
「これポッキーってお菓子」

また新たな甘味の襲来であった。

如何やら他にも種類があるようで、悟さんの片腕が隣に置かれた袋から更に新たな甘味を取り出そうとガサゴソと音を立てている。
映画が始まるのはもう少し先になりそうだ。



□ □ □



「ココア、温まりますね」
「そりゃあ良かった」

幾つかのお菓子を少しずつ食べ終わり、本格的に映画を観る態勢になって少し。
追加で用意されたココアを両手で抱えつつ、ソファに並んで腰を掛けていた。

「ほら、ちゃんとブランケットかけな」

始まりだした映像に目が奪われそうになる寸前、横から保護者の様な声が聞こえる。
いけないと思って、ブランケットがしっかりと脚を覆うのを確認しながら整えた。十分暖かいが、これで心配もないだろう。

改めて画面に目を向けると、今度こそ物語が始まっていた。
こくりと飲み込む甘さもそこそこに、次々に展開する外の風景や人の動きと驚きに脳内処理が割かれていく。飲み物など飲んでいる場合ではなかったのだ。
暫し静かに眺めていたが、不意に悟さんが声をだす。

「この男サイテーでしょ。でも警察なんだよなー」

如何やら説明をしてくれているらしい。
きっと、私では全部を読み取ることが難しいから、とてもありがたい事であった。

「警察って取り締まる機関ですよね?」
「でも、麻薬に手を出してるから悪役ってワケ」
「麻薬ってどんなものなんですか?」
「危険なお薬! 飲んだら気持ちよくなるかもだけど、依存性が高い違法なもの。現実でもあるよ」
「現実に……勉強になります」

なんという補足であろうか。
映画の本筋とは関係がないだろう所で驚きである。
しかし、驚いていると勝手に物語が進んでしまうので、なんとか追いつこうと頭を再度回転させながら映像を追っていく。
たまに、横からも声がかかり様々な知識や物語についてが語られて、ついていくのがやっとである。余りにも方々に意識を集中させなければならなくなったので、途中から飲み物は机に置き、食べ物など手を付けられる筈もなかった。


それから、しばらくやり取りが続いた後、気が付けば物語がもう終盤だろう位置にきた。
可愛らしい女の子は、植木鉢から施設の庭に植物を植え替えている。

しんみりとした雰囲気に音楽が流れ、今まで張り巡らせていた神経がふっと途切れるのを感じた。
と同時に、気付けば悟さんに少しだけ寄りかかる形になってしまっている自分がいた。
放心した状態で曲を聴いていると、上から突然声がかかり、連動するように体に微弱な振動が伝わる。

「そういえば言い忘れてたんだけどさ」
「はい」
「今度この家に二人ほど人を連れてこようと思うんだけどいい?」
「お客様ですか?」

今観ていた映画との脈絡が全くない内容に、驚いて預けていた背を元に戻し、顔を覗き込んでしまう。
急にどうしたのだろうか。
驚きで映画の内容が飛んでしまいそうだ。

「そう。因みにそのお客、一週間ほど泊まって貰うことになる気がするんだよねー」
「あらあら、準備しないとですね」

既に悟さんの掌の上であるが、動転している最中であるため気付く由もない。
一方で、彼は本当にふと思い出した話題だという様に話を続けていく。先程までの非現実から、直ぐに切り替えることが難しい為、相槌のみになってしまいそうではあるが。
そんな私を知ってか知らずか、尚も彼は続けて行く。

「知らない人と一緒に少しの間過ごすのって大丈夫なひと?」
「生まれた時から、使用人の方々と暮らしておりましたので問題ございません」

既にお客様が宿泊されることは以前から決まっていた口調であるため、念のための確認であろう。
私もここまで来てやっと、心と思考が自身に返ってきたことを実感する。

「確かにそうだね」
「ふふ、悟さんのお客様だなんて、楽しみですね」

お客様が来るのは、純粋に楽しみなので、どのような方が来られるのかと心待ちにするばかりである。
いつ来るかも現状ではお聞きできなさそうなので、更に胸を膨らませた。

「楽しみにしてていいよ~」

声高らかに告げる悟さんは、その日一日大層楽しそうであった。