透過好感
『明けましておめでとうございます!』
偶然付けたテレビから、声が聞こえてくる。今日は二〇一一年一月一日。
新年を迎えて世間は賑やかそうだが、この屋敷はいつもと殆ど変わらない日を迎えていた。
「奥様、明けましておめでとうございます」
ぼうっとテレビを眺めながら、正面のソファに座り、一瞬の肌寒さを感じたのでするりと二の腕を撫でたところであった。
横からの挨拶に意識が戻されるようである。ハッとして横を見ると、何人かの侍女が挨拶に合わせるように頭を下げていた。最前にいる冴は、肩掛けを腕に携えている。
「皆さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね」
挨拶を返しながら肩掛けを享受する。
室内は基本的に空調がきいているが、起きてすぐだからだろう、先程まで布団に包まれていた温かさから比べてほんの一瞬寒さを感じたように思っただけなのだ。それをつぶさに対応してくれる冴は凄い。そう思いながら目の前に用意された緑茶にゆっくりと手を伸ばした。
本来であれば、広間で使用人の方たちと揃って新年のご挨拶を……というところだが、折角のめでたい日だからと私が取りやめたのである。
というのも、現在この家の当主は昨年末から家におらず、今頃は本家の新年宴会に出ている頃であるからだ。帰ってくるのも三が日が終わるころだと聞いているし、私自身もこの家で過ごす初めての新年はゆっくりと過ごそうと考え、いつも通りにしようと相成った。
そうして、静かな元旦の朝を静かに迎えていたが、これでも昼頃から予定はある。何かと問われれば、来客があるのだが、相手はあの硝子さんだ。
お互い環境が変わり、特に硝子さんは忙しそうにしていたがメッセージのやり取りは継続していて、年末年始に悟さんが居ないと知ると元旦のお昼から会おうと提案があった。久しぶりに会えると分かって直ぐに了承をして、今か今かと楽しみに待っている。悟さんが居ない年末年始は何をしようかと迷っていたので、楽しみが出来て何よりである。
緑茶の匂いが湯気と共に広がるのを感じながら、ソファに体重を沈めた。
まだ時間はあるが、先程彼女から連絡があった折にとある銘柄の日本酒を持ってくる旨を聞いたので、料理長にそのお酒に合うおつまみを用意して貰わなければならない。
大事な使命を思い浮かべて、つかの間の静かな朝の時間を楽しむ。
□ □ □
侍女に導かれて、借りてきた猫の様に周りを見渡しながらリビングに入ってきた硝子さんは、何処か初めて会った日を彷彿とさせた。
「明けましておめでとうございます。お久しぶりです」
「あけましておめでとう。元気そうでよかったよ」
ほらこれ、と言って早速渡されたのは件のお酒が入っているのであろう長細い袋を前に差し出す。
お礼を言って、松葉杖で立つ私の代わりに侍女に受け取ってもらった。その際、食事の時に一緒に出して貰うよう再度頼んでおくことを忘れない。
一連の動作をしている間中、目の前からの視線が痛い程であったが、何か粗相をしてしまっただろうかという焦りを見せない様気を付けつつダイニングテーブルへと案内をする。座ってからも静かな彼女に耐え切れず、此方が根負けをしてしまった。
「硝子さん、私の顔に何かついていますか?」
「あー……いや、そういう事じゃないんだけど」
何処か言い淀む彼女は、柔らかな笑顔を浮かべている。
「名前の家に居た時は、座ってる姿がほとんどだったから」
メッセージをやり取りするうちに呼び捨てになっていたそれを直で聞き、少し胸を躍らせながらそういえばと思考を巡らせるのであった。
「確かに、あの頃はあの部屋だけでしか生活が出来ませんでしたから……」
最早懐かしさを感じつつ返答する私を、硝子さんは尚も笑顔で見つめてくる。くすぐったさに視線を彷徨わせつつ、軽く咳払いしながら対面に座ると小さな笑い声に迎えられてしまう。
「もう、硝子さんも意地悪しないでください」
照れながら拗ねたような声が出てしまった。発したそばから幼い子供に思えて、恥ずかしさが増したが仕方ない。運ばれてきたお茶に直ぐ手を伸ばして、誤魔化す様に口を付ける。
「”も”って? 五条……じゃなかった悟にも何かされてんの?」
ニヤリと笑う彼女は、久しぶりだからだろうか、以前に会った時よりも楽し気に盛り上がっている気がする。
それよりも、一つ訂正しなければならないことがあるではないか。
良い話題を見つけた気持ちになり、平静を取り戻して声をだす。
「悟さんの事は”五条”でも大丈夫ですよ。私も未だに苗字の名が染みついていますので」
「フフ、話題逸らした」
見透かされているようである。
「嫉妬とかじゃないだろうけど、お言葉に甘えて今まで通り呼ばせて貰うよ」
今日は良く笑顔が見える硝子さんは、意味深な言葉を交えつつ応答し、私と同じように目の前のお茶をゆっくりと味わい始めた。
先程まで外に居たからであろうか、ほっと一息ついたと思うと、流れたと思った会話を再度手繰り寄せるように「で?」と続けるのである。
「五条に何を意地悪されてるって?」
指先を温めるように湯呑みを持つ彼女は、やはり悟さんを彷彿とさせた。所謂似た者同士である。
友人たちは、どうやら年々私に対して遠慮が無くなっているように感じるのだ。
それに対して嬉しさもあるが、同時に気恥ずかしさも感じてしまってどうすればいいのか分からないのだった。
「いえ……その」
「ほら言ってみな? ……それとも先に食事にでもする?」
促す彼女は先程の意地悪さを潜め、穏やかな笑顔で此方を見つめている。
問い詰めると言う雰囲気でもないので、此方もお言葉に甘えて食事にしましょうかと切り換えてみたが、どうやら食事をしながら話の続きをしようということらしい。
それを察知して、また視線を彷徨わせる羽目になる。
そうして、元々用意してあった食事が、堰を切ったように次々運ばれるのを少し落ち着かない気分で見つめることと相成ってしまった。
硝子さんは、そんな私が珍しいのか、はたまた持ってきたお酒が楽しみなのか、浮かれた様子で料理を眺めている。
「酒も入った方が話しやすいだろう。取り敢えず一杯飲もう」
流されるままに徳利を持ち、お酌をされて乾杯まで進んでしまうから、勢いをつけて澄んだ液体を口に含んだ。
「これ、美味しいですね」
「そうだろう」
得意げな硝子さんが可愛くて、くすりと笑みを零す。
手元の料理にも少しずつ箸をつけると、口を動かす毎にこの場の雰囲気が緩んできたのを感じた。
同じくそれを察知したのだろう、硝子さんもぽつぽつとこちらに再度話を振ってくる。
「五条は、何か困らせてきたりしてる?」
多少の気遣いを感じて、まさかと慌てて返す。
硝子さんがどのような事を想像しているのか分からないが、困るどころか日々を快適に過ごさせてもらっているほどなのである。
「そう……まぁ、こんな大豪邸わざわざ建てるぐらいだから、相当甘やかしてるのかと思った」
「はぁ、えっと……それはそうかも、しれません、ね」
歯切れが悪くなる私に、軽く目を驚かせながら硝子さんは成程という風だ。
何に納得されたのかは分からないが、正しく甘やかされている自覚があるため、少し狼狽えながら手前に目線を落とし、小鉢の料理をいくつか摘まんでいく。
「この際なので、正直にお話しますね……その、このお家も初めはお話を聞いていなくて、大変びっくりしましたし、私には勿体無い程の環境を用意して貰ってるんです」
それは、今まで心に留めていた彼への思いであった。
「床だって、私が躓くことのないようにと配慮がされていたり、今まで余り動き回る事が無かったので、疲れた際には車いすが使えるようにされていると冴から聞きました」
「うわー……予想以上だ」
ポツリと零れた硝子さんの言葉は、どのような意図か汲み取ることが難しい。
「他にも、体調が優れない時に……だ、抱きかかえられて寝室まで運んでいただいたりして……」
「至れり尽くせりじゃないか」
「そうなんです! 申し訳が無くて」
発した言葉最後の言葉に、一瞬硝子さんが口元へ近づけたお猪口の動きを止めた。
そのまま下ろされるお猪口を静かに目で追うことしか私には出来ない。
静かなひと時が二人の間に流れて、何か可笑しな事を言ってしまっただろうかと少しの焦燥感に駆られそうになってしまう。
「まった、”申し訳がない”?」
再び動き出した硝子さんは、しかし、先程までの笑顔とは打って変わって真剣みを帯びた表情で繰り返して聞いてきたではないか。
「はい、申し訳が無くて」
「好きになっちゃった!とかではなく?」
「そうなれないから申し訳が無くて……」
「アッハッハッハ、もー、名前最高! ふふ、あははは」
神妙な顔が、最後の一言で一気に変転する。
こんなに笑われると思っていなかったので、此方は驚いて一瞬固まってしまった程であった。
「硝子さん! 笑わないでくださいよ」
拗ねたような声が出てしまうのは仕方のない事だ。
「じゃあ、名前は相変わらずなんだね」
「変わらずです。 でも、ちゃんと悟さんからの好意は解ってはいるんですよ」
「解らなくてもいいさ、いい気味だ」
「もう、硝子さんたらお人が悪い」
長年の仲だからだろう皮肉は、本心でもありそうで窘めつつもくすくすと笑いが込み上げる。
本人のあずかり知らぬところでこのような扱いを受けているのは、ここだけの秘密ということで胸に留めておこうと勝手に誓いを立てた。
「なんにせよ、アイツが勝手に好いてるだけだろう。 好きにさせておけばいいのさ」
「そうは言っても、私もここまでして頂いて罪悪感が湧かないほどの人間じゃあないんですよ?」
「だろうな」
知っているさとでもいうように、ゆっくりとお酒を傾ける彼女に倣って自分も手元のお酒を再度口に含む。
硝子さんはてっきり辛口が好きなのかと思っていたが、私に合わせてか、甘い風味が口内に広がり、更に場の雰囲気を和らげるように感じた。
彼女の反応も相まって、嬉しさからか口数がいつもより増えていく気がしつつ、ええいままよと相談を続けてしまうことにした。
こんな機会は滅多にない気がしたのである。
「だって、悟さん、学生の頃から私の右目が見えない事を見越してなるべく左寄りに座って下さってましたけど、今もそれは変わりませんし、廊下を歩く時は直ぐ右側についていて下さるんです」
「あぁ」
「他にも……夜の、夫婦の営みは……私がちゃんと好きになるまでは……と」
「へぇ~……五条にもちゃんと人間らしい面もあったんだな」
しみじみと返答があり、照れながら発した自分の言葉が失言であったなと思い返して小さな後悔の念が襲う。
同性の友人というものに、何処まで語ってしまって良いものかが分かりかねるのだ。
しかし、今の発言はお酒の力もあったように思うので、多少気を引き締めることにした。取り敢えずは会話を続けなくてはいけない。
「悟さんは昔からお優しいですよ?」
「ソレは名前にだけだよ。 でも、無理やり襲われてなくてよかった……流石にそんなことしてたら私が殴りつけてるところだ」
「硝子さん、物騒です」
笑い返しつつ、目の前の彼女をみると徳利の口をついと向けられる。
程よい酔いが体をまわり、体が心地よい火照りを持っているが、まだまだ話足りないと、此方もお猪口を近づけた。
「友人のために怒ること位はあるよ」
「悟さんも友人ですよね?」
「五条は元々どうしようもない人間だから」
軽口を言う頼れる友人は、どうしようもないという雰囲気を醸し出して新たなおつまみへと箸をすすめる。
如何やらお気に召したようで、再度持ってきてほしいと侍女に頼む姿が、その瞬間だけ幼さを感じさせた。
「そんな……でも、硝子さんは頼りになるので、何かあったときはよろしくお願いしますね」
「あぁ……それと、本当に五条には何かを返そうと思わなくていいからな」
「そうでしょうか?」
「五条も、そのままの名前が好きなんだよ」
「なるほど?」
「だから、いつも通りで居る事が一番って訳」
これにてお悩み解決!と、両手を鳴らして今一度飲むぞと景気づける硝子さんは可愛らしさが垣間見えている。
ここ最近頭の隅にあった悩みは、今はどこかに吹き飛んでいきそうだ。
それでも流石に何もしないと言うことは出来ないが、日々彼をこの家で待ち、安心できる場所になる様に努めようと思い直せたのは大きな進歩である。
その後も二人での宴は続き、無理を言ってその日はそのまま泊まって貰うことにした。
お陰で悟さんが帰ってくるまでを楽しく過ごすことができたので、機会があればまた頼もうと思う。
因みに、この日の話は二人だけの秘密にしようと相成った。