護るための枷

護るための枷



「そういえば、家やっとできたから」

突拍子もない言葉が耳に入ったのは、9月の初め、未だ少し暑さも残ろうかという時季であった。近ごろ、着物も単衣を着るようになり、外の景色を見ることが叶わない乍らも、こういった事で季節を感じている日々である。
話を戻さなければ。何と言ったであろうか……家が出来たと聞こえた気がした。目の前に座る悟さんは、なんてことはない顔で嬉しそうに此方の反応を伺っている様に見える。
「えっと、おめでとうございます」
取り敢えず、無難な返しをしておく。五条家の別邸が増えたのかもしれないし、何より新しい家が出来たとて、私には関係が無いからだ。
しかし、この反応は気に入らなかったらしい。悟さんは、ため息をついてやれやれと言った風である。
「僕と、名前の、2人の家だよ?」
「はぁ……私はここから出られませんが」
呆けてなんとも言えない返しをしてしまった事は謝りたい。悟さんが悲しそうな顔をしているではないか。そう思う一方で、結局の所今の返答に対する正解がわからず、混乱してしまうのもまた事実であった。
当たり前の話ではあるが、苗字家で呪いを持って生まれた子供は、成人しても尚、生家――更に言うと自室――の中で過ごすのが通例である。何か特別な事があれば、外に出ることもあるらしいが、実に稀なのだ。特別なことというのも、呪術界の上の方の要請によるものであり、苗字家の意向ではない。また、外に出る際は、結界術にある程度優れた準1級または1級の術師4人が必要となるため、容易ではないのである。
「あのねぇ名前、僕を誰だと思ってるの。五条悟だよ?」
「そうですね……でも、私は結界の中でないと生活が出来ませんし」
「ノープロブレム!心配なし!そういう事もちゃーんとわかってるから」
ニコニコと得意気な笑顔が、何故か怖く思えてしまう程に自信満々の様だ。褒めてほしいのは伝わってくるが、一方で内容にも目的にも何も追いつけない私は、猜疑の眼を向けてしまうのは仕方がないと言えるだろう。
「取り敢えず、10月になったらすぐ引っ越すからね! 準備しておいて」
「あの、しかし……」
「冴さんにはもう伝えてあるから心配しなくていいよ。名前のご両親も了承済みだから」
何やら、私が預かり知らぬ所でどんどんと話が進んでいた事が伺える。何がどうなっているのか解らないが、兎に角私はこの部屋から出るらしい。生まれてこの方、一歩も出たことが無いので、全く実感が沸かない。
「あ、そろそろ行かなきゃ……名前ごめんね、明日から長期任務なんだ。次は1週間後に来るよ」
言い残した悟さんは、緩やかに私の頭を撫でてから、それまでの事など気にも止めずに出ていってしまった。退室する彼の背中を、ただ呆然と見つめている私はなんて間抜けなのだろうか。

まるで狐にでもつままれたかのような心境である。



□ □ □



状況を整理しよう。
あの日から数日、私は未だに実感がわかないまま、五条さんが突然言い出した新居の話で、頭の中が占領されている。”大丈夫”と彼が自信を持っていうのであれば、本当に大丈夫なのだとは思う。但し、彼にも伝えたように私のような役目がある者は古くからこの部屋を出ることはなく一生を終えているのだ。
まず、自身を守る術が無いのにも関わらず、その身の一部が呪物なのだから、呪霊にとって格好の餌であることは既に周知の事実であろう。それに加えて、私はその呪物となる部分が足であるから、普通に歩くことが出来ない為尚悪い。更には右目も見えないので、如何にも外出には不向きである。
そんな呪物が外に出たら、呪霊に取り込まれるのは容易に想像できてしまう。その呪霊がもたらす一般社会への影響を鑑みて、部屋の中で一生を終えることには特に疑問を感じない。
そうして、それらの問題を乗り越えたとて、外に出る際には準1級以上の術師4人を要請し、部屋を張り巡らせているのと同じ組み上げた紐と特殊な呪符を用いた呪具によって、移動しながらも結界を張り続ける事をしなければならないのである。術師4人はそれぞれ錫杖のような物を持ち、四方に立ったそれらからのびる組紐の先には輪っか状の組紐が繋がっており、私のような者はその首輪をつけて歩くという代物だと聞いている。この様に、大変な手間がかかるため、使うことは基本無いのだが、そう言ったものがあると言うことは聞き及んでいる。聞き及ぶ程度なので、やはり考慮しなければならない事が多い事もあり、現実味が湧かないのであった。
また、現在私自身は苗字家当主となっているが、それもどうなるのであろうか……きっと、そのあたりも悟さんと両親の間で取り纏められていると思うのだが、気になってしまう。どのように考えても詮無き事ではあるが、考えに耽るのは仕方のない事であろう。一方で、苗字家の中では侍女達が日毎に引っ越しの準備を進めているようで、右へ左へと忙しなく動いている気配が感じ取れた。其れ等の気配に意識を傾けていると、不意に部屋の向こうから冴の声がかかる。
「奥様、今お時間よろしいですか」
「えぇ、どうぞ」
結婚してからというもの、お嬢様から奥様と呼ばれ方が変わった声を聞きながら、返事をした。私の言葉を受けて、失礼しますと声がする。少し開いた襖を見やり、一呼吸置いて更に開かれた先の冴に顔を向けると、現れた彼女の顔はどこか陰っており、普段の明るさが無い。
「何かありました?」
「いえ……その」
此方の質問にも一度口を噤み、考える素振りをしてしまうのだ。本当にどうしてしまったのであろうか。忙しい最中、余程言い難い事態でも発生したのかと固唾をのむと、此方を伺う目がやっと決心の色を見せる。
「今まで黙っていてすみません」
突然謝る冴に、一瞬何のことかと呆けてしまった。そんな私を見かねて、冴は補足するように近頃の私の様子を心配していたと告げてくる。どうやら、悟さんからの話を聞いてからというもの、考え事をするところをよく見かけるようになり、心配していたと言いう。加えて、自分は様々な調整があることからもかなり前から悟さんには今回の話を聞いており、こんなにも動揺を与えるならば以前から伝えておけばと心苦しくなったようであった。
「そんな、いいんですよ。悟さんからのお願いですよね?」
「はい……。しかし、せめて、引っ越しの期間をもう少し先に延ばして頂くよう相談して参りましょうか」
「悟さんも、五条家の皆様にもご迷惑にもなるから、そんなこと気にしないで下さい。私もきっと未知の事に少し焦りがあるだけだと思うんです」
この言葉は本心からであり、周囲への気遣いのみを優先していた訳ではなかった。それでも、冴には私が我慢しているように思えてしまったのか、沈痛な面持ちで再度口を開く。
「……旦那様は、奥様の事をよく考えて下さっています」
そういう冴の顔は真剣そのものだ。私に言い聞かせるようでもある。
「きっと奥様の心境を汲み取って、日程を調整し直して頂けるかと」
「ありがとう、冴。私のことを心配してくれて」
余程心配させてしまっていたらしい、彼女を安心させるように、ゆっくりと言葉を紡ぐことを心掛けた。
「私は悟さんが無茶だけを言っているとは思ってないですし、優しい所があるのも知ってるつもりなんですよ」
冴もそれを分かっていたから了承したのですよね。そう付け足した私の言葉に、冴はほっと息を吐きだし、少し安心した様に目尻を緩めた。冴のような女性が、侍女長として幼い頃よりずっと傍に寄り添ってくれていて心底良かったと思えた。できうることなら、彼女も新しい家で一緒に過ごせることを願うばかりだ。

宣言通りであると、明後日には来るであろう悟さんに相談をしてみようと心に決める。私の知っている悟さんなら、きっと検討してくれるはずなのだ。