凪ぐ視線

凪ぐ視線




未だ少し寒さを感じるだろう三月下旬。
それは、リビングの窓際に椅子を置いてもらい、庭の水琴窟に耳を澄ませていた折の事であった。
暫く会えていなかった悟さんが突然帰宅すると知らせが入ったので、静かに待っていたところ、その静寂を裂くような大声と共に彼は客人を連れてきたのだ。

「たっだいまー!」
「お、かえりなさいませ」

まずは、リビングに響くその大声に一驚。
響く水の音がかき消され、突然のことに反応が遅れてしまったのは致し方ないと思う。

「言って下されば出迎える準備をしましたのに」
こんな部屋の隅に居てはお辞儀もできない。
「そんなの気にしなくていいのにー……あ、それよりも! 今日はお客さんを連れてきてまーす!」

ジャジャーン!という効果音を自身で発しながら、体を横にずらす悟さんに再びの驚きが走る。
今日は帰宅するとだけ聞いており、お客様が来られるとは聞いていなかったのだ。
目を白黒させながらも、努めて平静を装い悟さんが元居た場所を見ると、そこには小さなお客様たちが2人いた。

「おじゃましてます」

髪を1つ結びにした女の子が、此方に向かって少し伺うように声をだす。
その横に並ぶように、女の子より小さな男の子がじっと私を見つめていた。
そこでふと、先日の話を思い出した。それは映画を観ていた際に客人を呼ぶと言っていたものだ。まさか、あの時言っていたのがこの子たちの事であったのだろうか。
疑問を浮かべつつも、傍にある松葉杖を取って椅子から立ち上がる。

「悟さんのお子さんですか?」
「はー? 僕が名前以外と子供作るわけ無いじゃん」
「ふふっ、冗談ですよ」
「名前って偶に冗談キツイよね」

軽く悪態をつきながらも「こっちが津美紀でこっちが恵ね」と、それぞれの子供たちの名前を教えてくれる悟さんの言葉に聞き耳を立てた。
どうやら、春休みという学校のお休みの間この家に宿泊するらしい。

「津美紀さん、恵くん、はじめまして。五条名前です。少しの間よろしくお願い致します」
ニコニコ笑顔のお願いしますと、少し戸惑うお願いしますが返ってくる。

恵くんは先程から目線が合わないなと不思議に思っていたが、先を辿ると私が晒している足を注視しており、瞳の色が未知のものに怯えているようであった。加えて、津美紀さんの腕を少し引いているあたり、私が呪霊擬きにでも見えてしまっているのだろう。恵くんは見える人なのだ。

それにしても、今日の服装もいけなかった。
いつもの着物であれば殆ど脚が隠れたものを、膝下丈のワンピースを選んでいたのである。
きっと、この脚の色は津美紀さんには見えていないと思うのだが、”見える”側からすれば警戒してしまうのは仕方のない事だ。
これは可哀想な事をしてしまったと、早速私は逃避を選ぶことにした。
逃避と言っても外に出られはしないのだが、リビングに居ると恵くんは気が気ではないだろう。この後の予定は知らないが、ここに居るのが得策では無い事ぐらいはわかる。
だからこそ、慣れ親しんだ和室にでも入って、いつもの様に組紐でも編んでいようと思ったのだ。

「早速で申し訳ないのですが、少し用事がありますので私はお暇致しますね」

お辞儀した頭を上げると、悟さんは驚きの表情でこちらを見つめる。
しかし、深くは追求しないようで、私が動き出しても静かに見送ってくれた。今の私にとってはありがたい。

そそくさとリビングをあとにする私の視界の端に、それぞれが違う方向で不安そうな顔を浮かべる子どもたちが見えた。



□ □ □



リビングには微妙な空気が漂っている。
一人は何処か不満そうであり、一人はじっと女性が去った扉を見つめている。更にもう一人は、そんな二人と先程の女性を思ってハラハラしてしまっているのであった。

「悟くん……」
「……っはーー」

大きなため息が空気を緩めた。
白髪は苦笑を浮かべて向き直る。

「二人とも、ちょっとここで待ってて」
子供たちの頭にそっと手を添えて、彼女の後を追う為にリビングの扉に体を向けた。

「名前さん、私たちが来るの嫌だった?」

後ろから聞こえてきた津美紀の不安そうな声に進めた足をピタリと止めて、軽く振り返る。

「そんなことないよ」

笑いかけると、完全には納得していなさそうだが、少しだけ安心した顔が見えた。
折角連れてきたのだから、仲良くあってほしいとは思うのだ。


再度進めた足は、侍女の一人に聞いたままあの和室へと向かう。
近付いてすぐに名前を呼ぶと、室内が一瞬シンとして、小さくはいと声が聞こえる。
襖を開ける音が厭に響く中足を踏み入れると、何処か気まずそうな名前が座しているのであった。

「子供、苦手だった?」
「いいえ! 可愛らしいお2人に会えて嬉しいですよ」
「じゃあ、なんでこっちきちゃうの? 恵のせい?」

ズバリ、確信をわざと衝いて言うと、名前の顔は苦笑交じりに緩む。

「恵くんのせいという言い方は違う様に思いますけど、やはり怖がられている人にわざわざ近づくのは避けたいと思うものですよ」
「そう? 恵なんかその内慣れると思うけどね」
「そんなことをしていたら嫌われてしまいます」

くすくすと笑う名前はしかし、どうにも折れそうにない。
色んな人間と関われば少しは楽しい生活にならないかと思って、恵の稽古序でに連れてきたがいやはや。まさかの状況になってしまった。恵には先に説明しておけばよかったなと軽く後悔をする。
まぁ、恵へは後々説明するとして、取り敢えず彼女も暫くここに居た方がいいだろう。

思い直して、わかったと返事をしながら立ち上がる。
一旦、恵の稽古をして、津美紀は侍女にでも相手をしてもらおうと思ったからだ。
しかし、進みそうになった足は今一度Uターンをして彼女に向き直りしゃがみ込むことにした。

「名前、しばらく2人いるけど、本当に嫌なら言ってね」
念のためである。
「本当に、嫌じゃないんですよ? 何か、考えがあるんですよね」
「そんな深いもんじゃないけど」

此方を見透かすような眼が、真に嫌ではないと語っていた。

正直な話をすると、2人をこの家に呼んだのは名前との時間を確保するためでもあると言える。任務をこなして2人の家に通い、長期休み等は特に恵みを鍛えようとすると、家に居る時間がどんどん減るのだ。せめて2人が長期休みの時ぐらいはこの家に居る時間を増やせたらという利己的な考えがあった。
だから、どうしても名前が生活しづらいと言うのであれば、2人を帰して自分が頑張って時間を捻出すればいいだけなのである。多少忙しくなるだけ。

「まぁ、いいや、取り敢えずご飯位は一緒に食べよう」
「はい」

またも苦笑する彼女に、此方も苦笑してしまった。
未だ、子供たちへの遠慮は消えそうにない。



□ □ □



本館から渡り廊下を経由した先には、2つの建物が続いている。
片方は使用人たちの居住区であり、もう片方は柔道なども行えるようなだだっ広い部屋がある稽古場であった。
その稽古場には、何度か受け身を取りつつもこっぴどく体術をつけられたのだろう少年が、畳に身を預けながら荒く息を吐いている。

「まだまだ動きが悪いねー」
「ハァ、ハァ……」

返事もできないほどにコテンパンにされて、悔しさからギリリと歯を食いしばる。
見下ろす男は、息も乱れていなければ汗もかいている素振りが無い。

「そろそろ晩御飯の時間かな? 恵、のびてないで戻るよ」
何てことはないように告げられるそれに、息を何度か深くして整えてから力を込めて立ち上がる。
腕を畳に押し付けた反動で立ち上がってみたが、少しふらついたのは目を瞑ろう。

「ボロボロじゃん、ウケるね」
何もウケはしない。その思いを込めてじっと睨み返すとニヤニヤと笑われるのだから質が悪いのだ。
「取り敢えず早く歩きな、2人が待ってるよ」

2人。
津美紀とあの名前という女性だろう。彼女も一緒なのかと思うとなんとも言えない気持ちになった。
別に恐怖からだけの単純な感情ではない。自身が恐れたことを悟って彼女が離れたのがわかったから、罪悪感も少しあるのだ。
この馬鹿でかい屋敷に来る前に、少しだけ五条さんから説明は受けていた。自身の妻が待っているからと。
こんな人の相手なのだから同じような性格かと思えば、人好きの良さそうな笑顔を向けてきて、一目見ただけで津美紀と似ている気がすると思ったのが印象にある。
その後は顔をよく見ていなかったから、あくまで印象だけでしっかりと顔を思い出すことは叶わないのだが。

ぼうっとそんなことを考えている間にも、前に立ちはだかる大きな壁が、ほらほらと煽る様に手招きをしていた。
未だ息を整えつつも、反抗する体力すら惜しくて、静かに額の汗をぐいと拭いて自身の足元を見据える。

「先にシャワー浴びる?」
「うん……」

見かねた五条さんから声がかかるほどに汗を流しているようだ。
素直な返事に分かったと返答があり、そのまま先程居たリビングの方向へ戻る道を先導される。もう、何処へ行くのかは任せるしかない状況であった。
無言のまましばらく歩くと、初めにリビングに入った扉が右手に見える通路に来たが、リビングには入らずに玄関方面へと向かう為に左に曲がる。

「ここが脱衣所、左の扉開けたら風呂場だから」
少し歩いたと思えば、スライドの扉が音もなく開けられ、自分が住んでいる家では無かった脱衣所のみの空間が広がっていた。
高そうな家電や洗面台が広がり、なんとも違う世界の様である。
この家に来てから何度もあった気圧される感覚に再度襲われて、一瞬入るのをとまどってしまう。
その瞬間。

「っう゛ぅ……」

微かに後方から呻き声が聞こえた。
驚いて瞬時に体が反転する。

脱衣所の斜め前の部屋から、か細くだが声が漏れ聞こえているのだ。
どういうことか分からずに、隣の男に目をやると少し冷めたような顔をして先程の自分同様襖を見つめているではないか。
此方がまじまじと見ていたことに気付かれたのか、ふと視線が襖から自分へ向く。

「気になる?」

否と言えば嘘になる。こくりと頷いて答えると、「静かに覗いてみな」と指を指された。
何だかいけない事をしているような雰囲気だからだろう、そろりそろりと足音を忍ばせて件の部屋に近づいていく。何も悪いことなど無いのに。
部屋からは、尚も断続的に声が漏れ聞こえており、襖を開けることを戸惑わせる。

恐る恐る音を立てないように開けた先には、和室の奥にある机に向かう人の姿があった。

「ぐっぅ……っつ!」

痛々しい声を出すその人は、髪色から見ても先程見かけた女性だと言うことが分かってしまう。
何が、起こっているのだろうか。
混乱のままに立ち尽くしていると、唐突に視界が遮られる。
五条さんの大きな手が顔を覆い、先程同様静かに襖が閉じるのを感じた。

そうして、引かれるままに先程の脱衣所の中まで連れてこられたと思えば、扉も閉めて目の前にしゃがみ込み目線が合う。
なんとも言えない気まずさで押し黙る事しかできない自分に、目の前の男はふっと空気を緩めた。

「びっくりしたでしょ」
「……」
「丁度いいから説明しとくね」

指を立てた様は、何処か教師を思わせる。
流されるままに説明を聞くことしかできない状況だが、大切な話が始まる事だけはひしひしと伝わっていた。

「僕の奥さん、呪われてるの。生まれた時から」

やはりと言う気持ちと、生まれた時からとはどういうことかという疑問が脳内を渦巻き、ピクリと体が揺れてしまった。

「恵が怖がった脚が正にそれ。で、その呪いを少しでも解呪していこうとして、紐を編んでそこに呪いの呪力を流し込んでるって訳」
「……呪力を込めるのって、あんなに、痛そうなものなんですか」
「いいや、本当は違う。でも、彼女の場合自分の呪力じゃないものを自分の体を通してモノに込めないといけないから、痛みが伴うんだよ」

未だ詳しくは知らない事ばかりなので、そうなのかという感想しか出ないが、先程みた女性は相当つらそうであった。
なんとも形容しがたい思いが胸の内に広がる。

「まぁ、あれだけやってもほんの少ししか解呪には繋がらないんだけど……」

ぼそりと呟かれた言葉は、誰に言うでもなく宙を舞う。

「他にも、この家から出られなかったり特典盛沢山だから、もしよかったら仲良くしてあげてよ」
「……はい」

少し枯れた喉から出た返答は、思いのほかか細いものであった。
別に、何かを咎められた訳でもなければ、言葉をぶつけたわけでもない。しかし、この屋敷に連れてこられて直ぐに怯えてしまった自分は確かにいたのだ。

「あ、因みにあの呪いは、周りに危害が加えられるものでもなんでもないから」

安心しなねと言い残して、五条さんは扉を出て行く。

一瞬の静寂がこの小さな部屋を包んだが、ふと我に返って取り敢えずお風呂に入ろうと思い返した。
この後みんなでご飯を食べると言っていたし、気持ちを切り替えたかったということもある。

これまた大きな浴室に驚きながらも、軽くシャワーを浴びて急ぎリビングへと向かう。
胸の中の蟠りは未だ健在で、気持ちの整理はつかないが、その心に勢いをつける様に扉を開ける。
中には、ダイニングテーブルを囲う様にして、津美紀、五条さん、五条さんの奥さんがいた。最後に目が合った彼女は、控えめに会釈したのみだ。
居心地の悪さを感じながらも、津美紀の隣に腰を掛ける。
それを見計らったかのように、リビングの扉の一つが開かれて女の人たちが食事を持ってきた。普通に見慣れない光景なので驚きに固まってしまったのは致し方ないと言えるだろう。
大人たちを見ればこの光景を素直に受け入れているので、きっとこの人たちにとってはこれは日常なのだと言うことだけは理解が出来た。
内心を悟られぬよう静かに配膳を待ち、控えている人々に意識の8割を向けながらうわの空のいただきますを口に出す。
同じように呆けていた津美紀も含めて、暫し伺いながら食事を開始したが、その空気を破る様に悟さんが声を発した。

「あ、そういえば、明日からはご飯の準備とかも今まで通り皆でするからね」

如何やら今日だけ特別らしい。料理などは未だできないが、いつも通り手伝うのかと頭の隅にメモをした。

「じゃあ、名前さんも一緒?」
「えっ……」

お店の様なご飯の味に意識を傾けつつあったところに、津美紀の声が飛び込んでくる。
とっさに小さく驚きの声を漏らしてしまった後、しまったと思って件の彼女の顔をみた。
見たことを後悔したが、目が合った彼女は申し訳なさそうに困った表情をして、直ぐに目線を津美紀へと向けるのであった。

「ごめんなさい、津美紀さん。お恥ずかしながら、私は今までお料理を作ったことが無いので、お邪魔になってしまうかもしれません」
「じゃあ、折角だから一緒に少しずつ覚えませんか」

にこやかに提案する津美紀に、心の中がざわついてしまう。
きっと、彼女を困らせているのは自分がいるからだ。

「折角だしやってみたら?」

遂には五条さんまで誘っている。
多分、先程の事を踏まえてだろうとは思うが、変に意識してしまってどうやって接していいかわからないから待ってほしい。
この流れは自分も何か言わなければいけないとは思うが、今のところ挨拶以外の交流が無い為何を言っていいか戸惑う。
動向を静かに見守って食事を口に運んでいると、チラリと此方へ向けられる視線を感じた。

「そう、でしょうか……」
「恵もいいと思うでしょ?」

朗らかに聞かれるソレが、圧に感じて仕方がない。悟さんの顔を見れば、脅してきているようには見えないからいいのだが。
そうしてその目線を横にずらすと、不安そうに見つめる瞳とかち合った。

「……別に、いいんじゃない」

ふい、と目をそらして、興味無さげに返答してしまっていけない。
彼女はきっと、悪い人ではないのに。

「そう……ですね。働かざる者食うべからずですものね」
「んー、そういうつもりじゃないけど、まぁいっか」

悟さんに同意しつつ、その日はそのまま就寝することとなった。


……――翌日。
昨夜、殆ど話せなかったことが心残りになりながら、リビングのドアをスライドさせた。その先には、大人2人が既に椅子に座っているではないか。
多少面食らってしまったが、軽く呼吸をしておはようの挨拶をする。

今度こそ、綺麗な目を確りと見て会話が出来た瞬間である。

返ってきたのは、花が咲くような優しい笑顔であった。