従属の猫
三が日を優に過ぎ、新年の雰囲気を一通り通り過ぎた頃。日々寒さが増す中で、月を跨ぐのももう少しといった時期に、五条家の中の一部では使用人たちがぱたぱたと動き回っていた。
新年も終わったと言うのに何をそんなにと思うであろうが、女主人が体調を崩したとあっては一大事なのである。
気温が下がるのを追う様に崩しだしたそれは、ある朝熱と共に確かなものとして浮かび上がった。
丁度その日は、この家の主人も休暇を取っていたようで、使用人に指示を出しつつ介抱をかって出ていたのだ。
「はーい、出してくださーい」
体温計を受け取ろうと、悟さんの右手が差し出される。
「はい……」
「まだ下がりそうにないね」
数字を見た彼は、わかっていましたとでもいうように此方に目線を向けてきた。居た堪れない。年始に決意を新たにした筈が、出鼻を挫かれた気持ちだ。
実に二週間以上振りであった彼の終日の休みに、時期を示し合せたかの様な体調不良であった。
悟さんにはゆっくりと休んで貰いたかったのに、私がこのような状況では邪魔をしてしまうだろう。
「すみません」
「なんで謝るの?」
「久しぶりのお休みなのにご迷惑を」
「迷惑じゃないし、休みだからこそ思いっきり看病するよ」
言葉を遮った宥めるようなそれに、思いっきりとは?と思いながらも、明るい声色には救われる思いがした。
偽りであろうと、弱っているところには心強いのである。
「……ありがとうございます」
「まぁ、段々ココにも慣れてきて気でも抜けたんでしょ」
「そうかもしれません」
手ずから氷水にさらしたタオルを絞って私の額にのせつつ、此方を安心させるように頭が撫でられる。
ほぅ、と熱い息を一つ吐いて、ベッドに更に体を沈めた。
「それはそれでいい事だけど、元々体弱いんだからしっかり休んで早く良くなること!」
「はい」
「僕も暫くここに居るから、ゆっくり寝な」
「でも、うつってしまいますよ」
「マスク着けてるし大丈夫だよ」
教師さながらの言い聞かせにくすりと笑いつつ、素直に返事をしておく。
私が風邪をひいていると分かってすぐに、使用人たちを含めてマスクを着用して貰っていたが、自身もつけると言うと苦しくなるだろうからと拒否をされてしまったのである。
これに関しては、後で何としても冴に持ってきてもらおうと思いつつ、食べ物や薬が運ばれてくるまで静かに布団の中にくるまった。
□ □ □
「あつ……い」
八時頃におかゆを食べて薬を飲んでから、熱によって体力が無くなっていたのかするりと意識を手放していたようだ。
マスクもつけて眠って居たせいか、はたまた腹部に感じる僅かな重みから伝わる温かさのせいか、暑さと多少の発汗を感じて意識が覚醒する。掠れた声は、静かな寝室にか細く響き渡った。
遅れて何度かに分けて瞬かせた瞳は、数秒かけてやっと焦点を合わせる。
「……んっ……やば、ちょっと寝てた」
身じろぎをしたからであろうか、横から悟さんの声が聞こえる。
どうやら、一緒になって寝てしまっていたらしい。
「おはよ」
「……お、はよ、ございます」
「ありゃりゃ、汗掻いてるね。冴さんたち呼んでくるから待ってられる?」
熱のせいだろう、喉が僅かに腫れている気もするので、尚の事声が出ていない。
質問には首肯で応えて、放漫な動作で布団から腕を抜き出した。室内の温度に触れる面積が増えて、多少涼しく感じて心地よい。
目を瞑っていると、額にひやりとしたものが当てられる。
少し驚いて目を開けると、いつの間にか悟さんが起き上がってタオルを替えていてくれたらしい。序でというように、額に張り付いた髪を丁寧に撫でつけられる。
「飲み物も持ってくるからもうちょっとの辛抱だよ」
「はい」
幼子にするようなそれは、マスクで隠れた顔からも慈愛の表情が読み取れるほどで、確かな安心感を伝えてくれた。
「落ち着いた?」
ベッドの上で支えられつつ、水を飲ませてもらって一息。
今回の風邪はどうやら強敵の様で、いつもよりひどく感じる。
それでも少しずつ良くなっているのを確かめながら、再度頷きで意思を示した。
「朝よりも熱も下がってそうだし、明日にはもうちょっとマシになってると思うから」
悟さんの大きな手の甲が、額にぴとりと当てられる。
続けて、頬を包むように添えられるそれが、他の人より低い体温なのか心地よくて無意識のうちに擦り寄ってしまっていた。
「なんか、名前猫みたい」
「ねこ……」
いつの間にか猫になっていたようだ。
呆けた頭では上手く思考が纏まっておらず、そんな風にしか考えられなかった。
尚も自身の熱が移りつつある掌に寄りかかる様にして目を瞑る。
以前から体調を確認してくれる大きな掌は、安心感を与えてくれて微睡んでしまうのだ。
「擦り寄ってくるね」
「手が、冷たくて」
「気持ちいい?」
ポツリ、ポツリと返事をしていたが、再度眠気が襲ってきてしまい首を小さくこくりと動かすのみになってしまう。
いけない、ここで寝てしまってはまた迷惑を……思いとは裏腹に、どんどんと体から力が抜けてゆく。
「でも、直ぐぬるくなっちゃうよ」
遠くで声がした。
「は、い……」
ちゃんと声にできたかは分からないが、自分の中で是と返事をしたのを最後に記憶はぷつりと途切れていた。
「奥様、ご気分いかがですか」
「昨日よりは幾分かましになりました」
「ようございました」
翌日の朝には起き上がれるほどになり、体も軽くなっていた。
あの後、夜に起こされた時には嬉々として手ずから夕食を食べさせようとしてくる悟さんから、何とか匙を渡して貰って、見守られつつ食べたりしたものだ。
恥ずかしい話だが、その頃には多少楽になっていたので断固拒否の構えをみせた。
現在はその時よりも更に良くなって居るので、悟さんを始め使用人たちには感謝をしなければと思っている。
しかし、件の彼が居るはずの場所には、元より誰も居ないかのような空白があるのみであった。
「悟さんは、お仕事に行ってしまわれましたか?」
「はい、二時間程前に出られました。ご帰宅は三日後とお聞きしております」
「そうですか」
お礼を言いたかったのだが、この時期でも忙しいらしい。
早く完治させて、帰ってきた悟さんにお礼を言わなければと決意する。お礼を言うことしかできないのが心苦しいが、思いを伝えることが大事なのだ。
「何か飲み物をお持ちしましょうか」
侍女の声に、明後日を向いていた意識が手繰り寄せられる。
まずは今、よく食べて薬を飲みよく寝る事が近道であることは今までの経験からよくわかっていた。
「ではお水をください」
「畏まりました」
寝起きだからか、はたまた風邪故か、体が渇きを訴えているのである。
そうして、自身の事に改めて目を向けだして、今日はどう過ごそうかと考えだす。が、考えだそうとした矢先に、大事なことを忘れていたではないかと思いつく。
立ち去ろうとする侍女には申し訳ないが、思うより先に口が動いていたことは謝りたく思った。
「悟さんは……悟さんの体調に、問題はありませんでしたか?」
自身が動けないことがいけないのだが、この家には他にもたくさん部屋があるにも関わらず、昨日は一日付きっ切りで看病をしていただいたのだ。もし、風邪をうつしてしまっていたらと思うと、いくら対策をしていたとて不安になる。
普段お仕事で忙しいから尚の事、無理はしていないだろうか、体を壊しはしないかと思う時があるのだった。
勿論、悟さんが最強と謳われていることは知っているが、彼も人間なのである。
「特段変化はございませんでしたよ」
「直ぐに症状は表れるものではないと思いますので、体調不良の連絡があれば対応できるようお願いします」
侍女の言葉に安堵しつつも、油断は大敵だと思い直して、一応お願いだけしておいた。
これは独りよがりな思いだが、矢張り硝子さんと話していた時に思った様に、悟さんが寄りかかれる場所のようなものをきちんと準備しておきたい。
「畏まりました、しかしまずは奥様の体を大事になさってください」
余りにも真剣に伝えたからだろう、自身を差し置く言動に侍女は小さく笑みを浮かべながら窘めるようにそういった。
子供に言い聞かせているわけではないのだが、そうとも取れる物言いに、多少の気恥ずかしさが込み上げて小さく返事をするよりほかに無かったのはここだけの話である。
因みに、不安視していた悟さんについては、全く風邪をひかず、無事に任務を終えて帰ってきた。私はというと、此方も無事に夫の帰宅までに風邪は完治し、いつも通りに迎えられたのである。
喜ばしい事ではあるが、それはそれ、一先ず予定通りに看病の件は真っ先にお礼を伝えることにした。
そうすれば、彼はどういたしましてと答えつつ、内緒話をするようにこう言ってきたのだ。
「すっごい不謹慎なんだけどさ、可愛かったから迷惑とかないんだよなーこれが」
邪気の無い笑顔と、話の内容に一瞬思考が停止する。
一体全体どういう事であろうか。
戸惑いで、口から零れる言葉がたどたどしくなるのが分かった。
「可愛い……ですか?」
「辛そうにしてて変わってあげたかったし、今後もなるべく風邪はひいてほしくないけどね?」
「それは勿論」
体調不良を避けて通りたいのは当たり前である。以降、少しでも変化があれば、早めに対処しようと思っている。
一方で、それが完璧に出来たら苦労はないと言うのもまた現実ではあるのだが。
「でもなんか、普段あんまり頼ってこないから手に擦り寄られた時は可愛いなって思っちゃった」
自身に戒めを科している最中、突然の言葉が耳に入り、それまで下を向いていた目線が反射的に黒に覆われた先にある見えるはずもない水色とぶつかる。
確かに、擦り寄るという行為をした、記憶は、無きにしも非ず。
普段から体調を見るために頬を触られたりするが、此方から押し付けるような、そんなことはすることはない。
「あれは、手が、冷たくて」
「照れてる照れてる」
揶揄われてしまうのは仕方のない事だが、照れもするだろう。
だって、平常時の私なら絶対にしない行為だ。幼子の様な事など、する筈もなかった。
アレは高熱の、ふわりと溶ける意識の中で、安心感を与える掌が冷たさも与えてきたが故に起きたことなのである。
「それは、照れもします」
言い訳ならいくらでもあるが、一つに纏めるならばこれだ。
人間、非常時の行動を揶揄われたら照れもする。
その上で、わかっていながらも尚私の反応が面白いのか、クスクスと声を漏らしつつ悟さんの言葉は続いた。
「でもああやって、普段見せない顔見せてくれたし、他の人に任せるんじゃなくて一日付きっきりで看病もできたからよかったんだよ」
「……そんなものですか」
「そんなものですよ」
ふふんと言わんばかりに言い切る様に、彼がそういうのならばそうなのかと一部納得をする。
それと同時に先程までの羞恥は薄れていき、代わりに疑問が頭を擡げた。
「私も、もし悟さんがお風邪をひいてしまわれたら、その心が分かりますでしょうか」
取り留めの無い疑問だった。
彼とはなんだかんだと長くを共にしていると思っているが、可愛いと思ったことはない。
ふと、初めて頭を撫でた日が頭を過ったが、あの時も可愛いという感情はなかったように思う。
これから、いつの日か彼を可愛いと思う瞬間はあるのだろうか。
「んー、可愛いは思われたくないかな」
遠くに思いを馳せる私が余程考え込むように見えたのだろう、苦笑するようにそう答えた。
「そんなものですか」
「そんなものデスネ」
先程と同じやり取りだったからか、声を出して笑う悟さんは、言葉遊びをしている様で楽しそうである。
「揶揄っていますね?」
「違いまーす」
明らかな揶揄いに此方が笑ってしまう。
言葉の応酬が心地よく響いた。
風邪もたまには悪くない、のかもしれない。