箱庭虚妄

箱庭虚妄



敷居を境界とした六畳間――とそれに連なる水場――が私の世界の全てであった。世間一般からすれば小さすぎるその世界が、ここ最近日々様相を変えて、せわしなくうねりをあげ動き出している。中心にいる私は、どこか取り残されるような空恐ろしさを感じながら、それを表に出すまいとしがみ付くように一日一日を過ごしていた。私の心境を知ってか、目の前の空色は以前に増して顔を出してくださることが多くなっており、尚の事部屋から出る事が間近に迫っていることを感じる。
さりとて、心中は憂悶としているとは言いながら心強いこともあるのだ。先日長期任務から帰ってきた悟さんに、せめて冴を伴えないものかと相談したところ、冴どころか苗字家の使用人を多数引き連れて新しい家に向かうのだと答えられたのである。どうやら五条家の使用人はあまり新居には迎えないという方針のようで、当家から必要な人員を選出済みとのことであった。五条家の方が少ないことに不満などはないし、何より気心が知れた人たちがいるのは大変うれしい限りなので、この点が現状知り得ている情報で平常心を心掛ける際の一助となっている。
大きな不安と少しの期待、その綱渡りをする私に、悟さんは日々優しく声をかけてくれる。
「新居には離れもあって、そっちに冴さんたちの部屋があるんだけど、渡り廊下で繋がってるし利便性は凄くいいよ」
ニコニコと冴にも向けて話す彼を見ていると、不安が少し薄れてしまうから自分は何と単純な人間だろうと思わなくもない。
「名前は行けないんけどね。今みたいに直ぐ連絡できるようにはしてるから」
「ありがとうございます」
きっと新居でも私室から出られないだろう事は解っているので、そういった配慮があるのは大変ありがたいことである。きっと冴からも色々と意見を聞いているだろう事は察することが出来た。
「あ!そうだ、驚かせようとして必要最低限の家具だけ勝手に買っちゃったから、欲しい物とか出てきたらすぐ追加で買うよ」
期待に胸が高鳴るような様子の悟さんに、ついつい気圧されてしまい笑顔が零れる。必要最低限で十分な事は容易に想像ができるので、悟さんがどういった家具を買ったのかが私にとっての気になる箇所であった。きっと彼ならば考え抜かれたものを取り揃えているのだろう。楽しみが1つ増えたことで、また少し思考が前向きになった。
「取り敢えず、どんなお部屋か楽しみにしていますね」
欲しい物については曖昧にしつつ、本心を返しておくことにした。部屋の中に物がありすぎると、移動の際に障害物となることもあるため、追加購入は必要ないのではないかと考えている節もあるのだ。そう言った私の返答にも特に不満を覚えることなく、家電も追加でかっちゃう?等と続けるのだから余程楽しみとみえた。やはり、ただでさえ忙しいだろう生活を送りながら、通い婚というものは相当の負担を強いていることもあるだろうと伺えるので、その負担がなくなるかと思うと私としても嬉しさが増すというものだ。
そうして話が尽きぬまま、着実にすぐそこに迫る日を迎えようとしていた。



□ □ □



「あの、悟さん」
声が、震えてしまう。
どうしたのだと慌てる様に此方に近づく悟さんに、申し訳なさとそれでも縋りたい思いでいっぱいになってしまい、言葉が詰まった。意気地がないとはこの事である。
「大丈夫? 体調でも悪い? というかその恰好やっぱり気に入らないんだけど」
最後は独り言になってしまっている悟さんに戸惑いの目を向けながら、行き場を無くした手が宙を舞う。叶うのならば、彼の手を握りしめたい気持ちで思考が占領されている。一方で、悟さんは今の私の格好に何度も文句を言っているのだから、二人の意思疎通の取れていない様がありありと見せつけられているだろう。
尤も、悟さんが今の私の格好を気にしているのはとても分かる。というのも、例の呪具を首に装着し、自身の周りに準1級術師の方が四人取り囲むように立っていることで、囚人のような状態なのである。私自身、初めて目にした呪具であったこともあり、最初は物珍しさに気にも留めて居なかったのだが、実際に身に着けると、何とも言えない居た堪れなさが込み上げるのだ。
しかし、そんな時間も直ぐに過ぎ去り、私の中ではそれを上回る気持ちが膨れ上がっている。この部屋から出るのである。生まれてこの方出たこともないのにだ。緊張で震える指先は、松葉杖の持ち手に力を入れることで誤魔化しているが、どうにも誤魔化しきれそうにない。
「あ、あの……今なら結界から手が出てもいいでしょうか」
周りの術師の方に確認を取ると、あとで目隠し――といっても、呪霊から隠すためのもので、物体や人物の輪郭は捉えることのできる紙の面らしい――も着ける予定で、特段問題はないらしい。何より、今は部屋の中なので、特に気にしなくてもよいようである。
了承を得てからの私は早かった。未だこの場には、両親も来ていないのだから許されるだろう。目の前の悟さんの手に片手を伸ばしてギュッと引き寄せる。
「すいません、さとるさん……今だけでいいので握っていてください」
震える手と突然の私からの行動に驚いたのか、一瞬言葉を無くしつつも、直ぐに状況を把握して両手で包んでくれるのだから、悟さんの理解力に助けられた。言葉はないが、安心させるように握られる手が離せそうにもない。ここまでくると、覚悟を決めるしかない。外の世界に多少の憧憬の念があることは否めないが、過去にみた呪霊のことを思うと、この部屋という安息の地から一歩踏み出すには勇気が必要なのである。
「やはり、考え直しませんか」
蚊の鳴く声で提案をしてみると、悟さんは逡巡の後、横にいる呪術師の方に目線をやり、握っている手を引き寄せるようにして私の耳元に口を寄せた。
「アイツのことがあるから駄目」
茶化すように紡がれた言葉のそれは、然し、主語となる人物が夏油さんであるとわかるからこそ押し黙る他にない。最近は昔よりも警戒を緩めたものの、未だに見張りを必要とする生活が強いられているのである。複合的にみて、私が別の場所へ移動するのが妥当であることは火を見るより明らかだ。理解はできているのでぐうの音も出ない。そうして口籠る私に何を思ったのか、目の前の彼は宙を見つめながら誰かに語り掛ける様にぼそりと呟いた。
「今日は晴天だよ」
「せいてん……」
「そうだなー……この家出てすぐの所ならちょっとはお面の紙ずらしても良いからさ、初めて見る空楽しみにしておきな」
幼子の意識を逸らすようなそれに一瞬軽く咎める視線をむける一方で、悟さんはどこ吹く風でにやりと口元を動かした。上手く躱されてしまったが、諦めをもってひとつ息を漏らす。少しの震えに目を瞑り、再度準備に取り掛かることに意識を集中する。遠くから足音も聞こえるから両親も近づいてきているようだ。音に背を押されるように、前に向き直る。
「お面をお願い致します」

一歩。目の前を遮る紙は不思議なもので、本来であれば見えない物や人の境界線を黒色で線引いてみせた。一歩。周りの人間は、こちらの速度に合わせる様に移動している。一歩。敷居の前まできて、薄く息を吸う。
「一歩出ちゃえばなんてことないよー」
斜め前で小さく茶化す存在に出鼻をくじかれそうになるが、努めて冷静に敷居を越えて足を降ろした。後ろでは両親が息をのむ音が聞こえ、更に私を緊張させたが、未だ自室を出たに過ぎないからであろうか、特段何かが変わることはない。静かな空間に鹿威しが一定の拍子を刻むのみであった。
「ほらね、大丈夫でしょ」
得意げな五条さんに苦笑を漏らし、更に歩みを進めることにした。苦笑はしているが、彼なりに私の緊張を少しでも和らげようとしてくれていたのだろう事は伺えるので、咎めることは出来ない。しかしながら、未だに緊張はあるので、返答として頷くだけに留まるのであった。

初めて上り框の淵まで来た。この日のために誂えられた、式台の先に見える下駄に片脚を下ろす。もう片方の足には、冴がさっと近づいて履かせてくれている。もう、外は目の前だ。
「名前、今後はもう帰ってくることは出来ないだろうけど、会いに行くからね」
「何かあったら直ぐに連絡するように」
後ろからの両親の声に「はい」と応えて外へと向かう。今生の別れではないが、後ろも向けない上に、きっと振り返ったら涙があふれてしまいそうだからである。決して悲しい訳ではないが、そうなってしまうことは容易に想像できた。
ゆっくりと松葉杖をつきながら、三和土を進み、開かれた戸を抜けると、風が一陣吹き抜ける。初めて肌で感じる風に、今日までの気持ちがすべて何処かへさらわれていくようで、見えもしない上空に目を向けた。
そこでふと、悟さんが言っていたことを思い出す。少しだけなら空を見ても良いという話ではなかったであろうか。先行する悟さんに目をやると、待ってましたと言わんばかの体の動きをしている。
「みたい? お面ずらしてみてもいいよ、今日の空綺麗だから」
私以上に喜びを含んだ声音で此方に提案する悟さんに、一瞬肩の力が抜けるのを感じた。彼には敵いそうもないなと再度実感しつつ、誘われるがまま手をそっと紙の端に掛ける。
チラリ、見えたそこに広がるのは、何処までも何処までも高い水色と、その水色に浮かぶ柔らかそうな白いろの靄であった。
正しく、憧れていた”空”である。これが、晴天というものか……言葉を失い数秒硬直する私を促す様に、冴が横から此方を呼ぶ声がする。はっと気付かされて、紙の端に掛けていた指を下ろし、視界はまた白と黒になってしまった。しかし、先程の光景が如何にも脳裏に焼き付いて、胸の内がとくとくと脈打つのをやめない。嬉しさがじわりと込み上げて、気付けば家を出るまで怖がっていた事が頭の片隅に追いやられていたのである。
数歩進むと、少し先に車が見える。どうやら外の時間は直ぐに終わりを迎える様だ。一瞬気が緩んだからであろうか、右頬に水気を感じておやと頭を傾げる。突然立ち止まる私に、周りが困惑する中、申し訳ないと思いつつもお面の下に再度手を滑り込ませると、指先には一滴分の水がついている。気付かぬ間に涙が流れていたらしい。束の間の時間、再度感動を噛み締めて、初めて乗る車へと足を踏み入れた。
今日、この時を用意してくれた悟さんには、心からの感謝をしなければ。そう胸に抱いて、心地よい車の振動を感じながら、助手席から覗く後頭部を静かに見つめる。