成層圏より
「なにか叶えてほしいことはありますか!」
悟さんから唐突な提案が成されたのは今から丁度半月ほど前、私自身も彼の誕生日を2週間後に控えて考え倦ねていた頃であった。
以前にも聞いたことがあるような質問は、今回に関しては何がきっかけなのか分かりかねる。
わざとらしく改まった口調ながら、少しお道化ての質問には驚きを隠せない。
「既に沢山叶えて頂いていますが?」
一旦質問に向き合って考えた末に出た言葉に、どうやら彼は不服のようだ。そう目が物語っている。
しかし、そう言われても事実他の回答が浮かばないのである。
「名前は欲がないねぇ〜」
「そうでしょうか……」
はて、と手を頬に当てる。そもそも、この家を始めとする日々の生活に必要なものは、全て悟さんが揃えているので、何かを新たに必要と思うことが無いのだ。
お着物も洋服も充分あって、日用品も過不足ない。それらのことを指折り思い浮かべてうーんと唸り声が出てしまう。
「欲しい物だけじゃなくて、あれしたいなーとか、これしたいなーみたいなものでも良いんだよ」
困っている私に助け舟をだす悟さんは、幼子でもあやすような優しい目をしている。
確かにこの手の話は普段考えない事柄であるため、自然と不安そうななんとも言えない顔をしてしまっているのだろう。
「こういった生まれですので、何かしたいという気持ちはあまり持ち合わせないよう癖がついてしまって……敢えて言うのであれば、既に叶えていただいた外の景色を見るぐらいでしょうか?」
直ぐには思いつかない事に不甲斐なさを感じながらおずおずと回答してみた。及第点だろうか。
見上げた彼は、仕方が無いなとでも言いたげに笑って頭を撫でてくる。
「外の景色は見せてあげたいけど、あれも直ぐにはできないからなぁ」
「も、勿論です!」
あの日は本当の本当に特別であっただけで、準備だけで大変だろうことは想像に難くなかった。
そんな我儘を言いたかった訳ではないのだが、受け取り方ではそう聞こえてしまったのかもしれない。慌てて訂正の意味を込めた視線を投げかける。
「ま、無理にとは言わないけど何かあったら教えてね。僕も考えとくから」
「はい」
そんな会話のあと、悟さんの誕生日の準備で忙しく、尋ねられていた内容はすっかり頭の片隅に追いやられていた。
「冴、お願いします」
十二月七日夜。
夕食もそろそろ終わろうかという頃、後ろに控えていた冴に小さく声をかけた。
初めてではないのに緊張してしまうのは、心境の変化からであろうか。
少しして戻ってきた冴に、悟さんの視線が向いていることは承知の上である。
お礼を言いながら冴が手に持つ小さめの箱と封筒を受け取った。
「ありがとうございます……あの、悟さん」
名前を呼んで向き直ると、サングラスの向こうでにこにこと此方を見つめる瞳と目が合う。
既に嬉しそうで何よりだ。
「お誕生日おめでとうございます」
差し出した箱と封筒を大事そうに受け取ってくれる様は、どこか気恥ずかしさを感じさせる。
緊張のためか少し汗ばむ手に気付かないふりをして、紛らわすように言葉を続けた。と言うよりも、言葉を続けないと今すぐにでも封筒を開けそうになっていたからである。
「封筒の方は手紙でして、できれば私のいない場所で読んで頂けたらなと思うのですが……」
「こっちの箱は?」
「そちらは私が編んだ組紐で……昔お渡ししたものとは違って呪力を込めずに新たに作ったんです。お気に召せば良いのですが」
「嬉しいに決まってるじゃん、ありがとう」
包装をとってカパリと開かれた箱の中には、薄い水色と少しだけ灰色に近い白、ほんの少しの銀色の糸で編まれた組紐がぐるりと仕舞われていた。
中心より片側に寄った場所には、紐を一周して縛るように銀の金属が付いており、中心に鼈甲色の小さな宝石が納まっている。
「あの、そちらだけお伝えしたいことがございまして」
事後報告となる上にこの瞬間というのは、何とも気まずいものである。
しかしながら、言わないことは出来ない性分であるため、開いた口を止めるつもりはない。
「そちらの装飾品はどうしても自分では用意できなかったものですから、外商の方に相談して付けていただいたんです。ですので、悟さんのお金を使ってしまって……」
「気にしなくて良いのに」
「え?」
私の言葉を遮って、何ともあっさりとした言葉が返ってきた。そのあっけらかんとした様に、つい驚きの声が漏れる。
「普段からこの家のお金は好きに使っていいって言ってるでしょ。名前は物欲ないから、今は僕が勝手に名前のために使ってるけど」
どこに付けようかなと、嬉しそうに箱から取り出して眺める彼はなんてことないように続けた。
「そもそも、名前だって普段編んでる組紐を呪術界に卸してるじゃん。あれにもお金が発生してるんだから名前のお金でもあるってワケ。何より、僕を想って用意してくれたこと自体が嬉しいからそういうところは気にしなくていーの!」
「……ありがとうございます」
悟さんらしくてふっと笑みが溢れた。
別にこの優しさや性格を知らなかったわけではない。しかしそれでも、遠慮があったのも確かではある。彼が言うように、元々物欲がない方ではあるので尚の事かもしれないが。
そういった少しの距離が、なんだか縮まった気がして私自身嬉しくもあった。
独りよがりの様に、受け継がれた作業の様に、習慣として行なっていたモノが成果であると認められたのも大きいのかも知れない。
想いを伝えて以降過ごす日々で、薄っすらとした不安が募っていた彼との関係はしかし、悪い方向には進んでいない事だけは確信が出来ていた。距離感が変わらない事だけが気がかりであったのだ。
そんな中でも、彼がくれる言葉には思いやりが感じられるし、先程の言葉ではしっかりと私の事を見てくださっているのだと思わされるものがある。そう言った時には、心の距離が少し縮まる心地がしてくすぐったくなるのであった。
やはり、好いている方と精神的にでも近づけたのではと思えるだけで素直に嬉しく思う。
にこにこと自然に口角が上がる私を他所に、悟さんは以前のものに重ねるようにして足首に紐をつけ終わっている。とても満足そうだ。
「ありがとう、名前」
「此方こそ、喜んで頂けて何よりです」
沢山悩んだ甲斐があった。ほっと一息ついた私は、全身の緊張が緩むのを感じる。
人へ贈り物をする経験も極端に少ないので、どうしても反応が気になって無意識のうちに力が入っているものなのだ。
「じゃあお返しに、僕からもプレゼントがあります」
「え?」
緩んでいた思考が悟さんの言葉で引き戻される。
彼はしてやったりという顔でニコリと笑いながら、私の背後へ目を向けていた。先程のものよりは大きな箱を抱えて彼に近づく冴までも、悪戯が成功したとでも言いたげに笑っているではないか。
「冴さんありがとう」
そんな冴から箱を受け取った悟さんは、食器が片付けられた机の上に箱を置き、自らの手で包装を開けてゆく。
「じゃんっ! プラネタリウム~」
「ぷらねたりうむ……?」
聞き馴染みのない言葉に、脳内では沢山の疑問符が浮かぶ。
悟さんが楽しそうな事だけは伝わるのだが、如何せん想像が出来そうにないもののため、反応に困ってしまった。
「室内で星空が見られるんだよね」
「星空が……」
「想像できないと思うけど、早速寝る前に使ってみるから分かるよ」
寝る前に使うものであると言うことと、空を見ることができるというものだけは分かった。
どのような絡繰りかは分からないが、楽しみにしておくことにする。
「あ! ケーキまだ食べてなかったから食べてからお風呂にしよ!」
未だ不思議そうな顔をしている私を他所に、悟さんは思い出したとでもいう顔をしてこの後の予定を立てて行く。
幼子よろしく、終始楽しそうにされているので、一緒にお祝いが出来て何よりだと胸が温かくなるのであった。
□ □ □
「あれ、誰かがセットしてくれてたみたいだね」
「これが、プラネタリウムですか」
それぞれお風呂に入って、さて寝ようと言う時。
先程のプラネタリウムは一体どこで使うものなのか。疑問を持ったまま、誘われるように寝室まで来て、その正解がやっとわかった。
箱から出された機械的なそれは、ベッドの横にある小さな机に置かれている。まるで初めからそこに在ったような馴染み方だ。
近寄って少し触ってみるが、何をどうしたら星空がみえるのかは分からない。
「でも、本当によろしかったんですか? お誕生日は悟さんですよね」
「いいのいいの。何よりこういう時間が過ごせてるのも僕にとってはプレゼントだから」
未だ興味が球体へと向いている私が面白いのか、クスクスと笑いながら悟さんも横に並ぶ。
しかし、機械の説明をする気はない様で、触れている手を取られて引き寄せられる。
「取り敢えず名前はここに横になって」
ベッドのいつもの場所を指す彼に、これから何が起こるのだろうかと少しの興奮を隠して言葉に従った。
そんな私を確認すると、悟さんも同じように横になりつつ照明のリモコンを手に取り、短い電子音と共に目の前が暗くなる。
多少の輪郭を残す空間の宙を見上げると、多少の微睡みを感じてしまう。
「いくよ~」
微睡みを止めるような悟さんの声。
次いで広がる光景は、先程の微睡みなど影も残さぬほどに瞬時に息を飲む。暗闇の中に数えきれないほどの小さな粒がたくさん輝きを放っていたのだ。
「わ、ぁ……綺麗」
思わず口元に手を寄せて、漏れそうになる感動を抑えてじっと天を見つめる。星空とは、こんなにも綺麗なものなのか。
新たな経験に触れて言葉を失う私は、ただただ輝く光を享受した。
「喜んでくれてよかった」
「これが星空ですか……」
「そう、夜の空ってどうしても見せてあげられそうにないから」
「悟さん、ありがとうございます」
悟さんの声で現実に引き戻された。
彼の優しさや思いやりに嬉しさがこみ上げ、少し離れていた腕に近づいて頭を摺り寄せる。
愛おしさ故であろうか、はたまた暗闇故か、羞恥よりも喜びと感謝が伝わればとくっついてしまった。
「あー……名前さん、ちょっとマズいかも」
「ど、どうかなさいましたか」
それがいけなかったのであろうか。急に悟さんが狼狽えたので、驚いて少し起き上がり顔を覗く。
一人浮かれて失礼な事をしてしまったのかもしれない。嫌われたかったわけでは無いので、慌てて少しだけ距離をとる。
普段私から近づくことは殆どなかったので、はしたないと思われたのか。ぐるぐると思考する私を落ち着かせるように、悟さんは胸元に寄せていた私の手を取った。
「あんまり近すぎると雰囲気に持ってかれそうになるから」
「雰囲気……あの、悟さんは」
一瞬はくりと空気を吐き出した口は、その後の言葉を紡いでも良いものかという迷いが如実に表れている。
彼の言い回しは、現代的でたまに詳細まで理解できていない事があるが、大まかな意味は私でも分かっているはずだ。
つまりは、この先の言葉を口にしてもきっと誤りではない、と思うのである。
「悟さんは、私の事を女として見てくださっている……ということですよね」
「当たり前じゃん」
顔の機微は薄っすらとしか見られないが、取られた手の甲が彼の親指でするりと撫でられるのを感じた。まるで、安心感を与えようとするそれに、少し緊張して詰めていた息を薄く吐く。
以前からの悩み事と言えばこれぐらいであり、なかなか聞けなかった話でもある。
即座に入った返答に、杞憂であったとは思えたのだが、ならば何故という思いも脳裏を掠めた。
「私も」
「待った、ちゃんとわかってるから待って」
持たれていた腕を引かれて、抵抗する間もなく再度ベッドに身を沈めるが、先程まで見えた星空はなく薄暗がりに青い瞳と目が合う。
先程とは打って変わって真剣な眼差しに、つい言葉を噤んでしまった。
抑えられている手首も片方だけであり、緩いものであると言うのに、彼の雰囲気が動くことを許してはくれない。けれど決して脅迫めいたものではなく、懇願に近いものを感じた。
「それ以上言われると本当に下心出ちゃうから。今日はそういうつもりじゃなかったんだって」
「……いいんですよ、私と悟さんは夫婦ですし、私は悟さんの事が好きなんですから」
「……」
ゆっくりと選んだ言葉は、正解なのかどうかは分からない。
もしかすると、思いが通じ合った日から積もっていた不安の一部を吐露したかの様に聞こえてしまったのかもしれない。それでも伝えたかったのである。
私は自分勝手なのだろう。沈黙した悟さんからは、何も読み取ることは出来なかった。目は薄暗さに慣れて、顔を認識できているが、そちらも思考を読み取らせてくれることもない。
数秒の沈黙をただ静かに待つと、掴まれていた腕が緩く持ち上げられる。
なすがままにしていると、掌が熱く脈打つものを捉える。まるで自身の心臓の音を聞いている様で、驚きに目線を彼の胸に向けた。
「名前はずっと魅力的だし、今でもこうやって心臓うるさくなるぐらいなんだけど、だからこそ怖がらせたくないしゆっくり進めていきたいと思ってるんだよ」
「悟さんは十分待ってくださいましたよ?」
再度青色と向き合えば、僅かに表情が崩れるのを感じる。
そんな顔をさせたかったわけでは無くて、空いているもう片方の手を頬に伸ばす。
「なんで今日そんなに意地悪なの」
「最近不安を覚えていたので仕返しですかね」
首に頭を埋めた悟さんに、少し笑いながら返答する。意地悪であっただろうか。
でも、嫌がらせをしたいわけでは無く、想いを確りと伝えたいのだ。
どんな回答が返ってきても受け止めるつもりでいたから、彼自身の素直な気持ちが知りたかった。
「ちゃんと、愛してるよ」
ゆっくりと近づく顔に目を閉じる。静かに合わさる唇は、何度か角度を変えて繰り返される間に、薄く開けた口の中へ舌が入ってきてくちゅりと粘膜の触れ合う音がした。
途中から初めてのことだらけで、少しの動揺と羞恥の狭間で揺れる中、思いのほか長く続く時間に酸素が足りなくなってくる。
「……っんぅ、ふっ……っぁ」
息継ぎをしたくて開いては絡めとられる口に、知らず声が漏れてしまったが構っている余裕などない。
気付いた悟さんがゆっくりと離れていくが、はぁはぁと断続的に息を吸い込むので精一杯である。
「かわい、心臓どくどく言ってる」
何も反応できない私を他所に、彼は嬉しそうに笑うと私の胸へと顔を埋めた。恥ずかしさもあるが、それを上回る幸福感が確かにあった。
天井の星空も相まって幻想的なそれは、なんだか今の状況が夢の様で、繋ぎとめていたい衝動に駆られる。
「さとるさ……」
「んー?」
甘く曖昧な返事は、私を抱き込み埋めていた顔を緩く持ち上げるに留めた。
「て、握ってください」
「はいはい」
無意識にしたお願いは幼子のそれである。悟さんも、少し笑いながらの返事だ。
彼は更に体を持ち上げて、場所を横にずらしてから手を繋げてきた。お互いに最初の位置に戻ったが、最初に比べて距離は縮まっている。
片手を覆い隠す大きな手を、確かめる様にゆっくりと握り返した。今までにも触れあいが無い事はなかったが、なんだか今日は心境がいつもと違うのである。言葉にすることは難しいのだが、だからこそ行動に出てしまった。
「ごめんね、ちょっとは不安無くなった?」
「はい。でも、こういった事ってやはり気恥ずかしいものですね」
落ち着きを取り戻すと多少の羞恥が襲うもの。しかし離したいとは思えなかった。
如何にも、無意識のうちに彼との距離感を悲しく思っていたのだろう。握り返されるそれや、気遣う言葉に、胸の奥底がくすぐられる感覚を覚えた。
以前から安心感を与えてくれていた大きな掌は、更に温かさを以て大丈夫だと語り掛けてくる。
完全に体の緊張が抜けたのが伝わったのか、悟さんも笑顔を見せているのが薄暗がりの中でもわかった。
「今日は一旦ここまで、明日は一日休みだからずっと一緒に居られるよ」
おやすみと囁く言葉を片隅で聞いて、安心した意識はゆっくりと沈んでゆく。