おして純潔

おして純潔



そんな悟さんとのお出かけから2週間程が経ったある日、彼が数日家を空けることがわかった上で硝子さんから2人でお酒でも呑まないかとのお誘いがきた。
数ヶ月ごとに開催されるこれは、私の密かな楽しみである。

と言うのも、知り合いも片手で足りる程度のため、普段悟さんや家の者以外との交流が無いのだ。なくても困りはしないのだが、折角できた友人とはたまにでもいいので会いたいと思うもの。
そうして楽しみにしていたので、昨日家を出る際には悟さんに小言を言われてしまった。自身が家を空けるのに楽しそうにしている私をみて、浮気をされている気分だし妬いてしまうと言われてしまったのだ。相手が硝子さんであると言うことは承知の上で、だからこそと言うべきか思うところがあるようである。
宥めつつ見送ったのが記憶に新しい。

そんな風にして待ち望んだ本日。
様々な料理と、本日のためにと手配してもらった日本酒を用意して硝子さんを待ち構えた。準備は万全だ。

「お待ちしておりました」
「こんばんは。2ヶ月ぶり」

柔らかな笑顔と共に現れた友人は、少しだけ疲れた顔をしていた。医療関係の勉学に忙しいとメールで聞いていたからそれだろうか。今日はこのまま泊って頂くので、少しでも休息になればと思う。
リビングに案内した彼女は、席に着くなり一つ大きく息を吐いた。

「名前の顔見れて安心したよ」
「なんですか、それ」

愚痴でも零れるのかと思った口からは、私への心配の言葉が紡がれる。どうして急にとつい小さな笑い声が漏れた。だが、ふと思い返せば先日外に出た私の事を案じてくれていただろう事を察して温かい気持ちになる。

「ご心配をおかけしました。ありがとうございます」
「五条の事だ、余り知らされていなかったんだろう?」

呆れたように言う硝子さんは、使用人から渡されたおしぼりでゆっくりと手を温めている。その彼女を横目に机の上には次々と彩り豊かな料理が運ばれてきた。お野菜の小鉢がいくつかと、冷ややっこやお刺身の盛り合わせ、煮物にカラスミなどの珍味も少し並んでゆく。見目華やかになる中でも、硝子さんの気分は変わらないらしくやれやれといった風であった。

「硝子さんにはお見通しですね」
「笑い事じゃない」

まったくと言いながら此方を見つめ、手を合わせて食事を開始する硝子さんは姉の様だ。余程心配をかけてしまったらしい。しかし、それでもと思うのである。

「それでも、私のためにと動いてくださったことですから」
「……」

私を恨めし気に見つめる眼は、こういうのを分かっていながらも納得をしていないと語り掛けてきた。でも、私もこれには折れることが出来ない。悟さんだってあの日のために忙しく動き回り、私に何とかして空や海を見せようとしてくださった結果なのである。詳細を離さない事だって、この家を建てた時もそうだったのだから慣れたものだ。勿論、心臓には悪いのだが。

一歩も引く気配のない私に呆れたのか、硝子さんはふと気を緩めて料理に向き直る。仕方ないなとでもいう様な雰囲気で食事に手を付け始めた。

「余りにも暴走するようだったら私からもちゃんと注意しておくから」
「はい、ありがとうございます」

頼もしい友人に嬉しさで笑顔があふれる中、再度気を取り直して正式に食事が始まった。こうして私の身を案じてくれる人が家の外にもいると言う喜びを噛みしめて、その気持ちが少しでも伝わればとお酌をする。
場には和やかな空気が流れた。


暫くはとりとめのない近況を伝えあって、いくつかの小鉢を下げて頂いた頃、本題だとでもいう様に硝子さんがジッと此方を見つめて声をかけてくる。口元には微かに笑顔が浮かび、少し楽し気だ。

「それで、今度こそちゃんと外に出てみてどうだった?」

やはり気になっていたらしい、私としても硝子さんにはお話したい事もあったので願ってもない話題ではあるが、今思い返しても直ぐに言葉にするのは難しいものがあった。
それ程に、今までにない経験だったのである。

「月並みな言葉になってしまいますが、綺麗……でしたね」
「ふーん」

気のない様に聞こえる返事はしかし、確りと此方を伺っていることが分かる。硝子さんはゆっくりと私の言葉を待っていてくれるのだ。

「最初は呪霊もいて、あの日を思い出したんですが」
「うん」

呪霊の2文字に硝子さんが反応して、直ぐに真顔になってしまった。彼女はこれを心配していたんだろうことがひしひしと伝わる。

「でも、気付いたら綺麗な夕焼けと海が広がっていました」

「そう、よかったね」

簡素な返事の中に、安堵と仁愛が滲んでいるように感じるのだから気分が高揚してしまう。何処か気恥ずかしさを感じるのだ。見守られている様に思うからだろうか。実際そうなので何も言えないのは確かである。
心にくすぐったさを感じながらも、当時を思い出してどうしても思い出された情景があった。

「はい、それに……」
「? どうかした」

硝子さんはまだ続く話に不思議そうに箸を止める。
大したことではないのだが、口から零れだしてしまった言葉は、促されてからはたと気付いて続きを言うことに躊躇してしまった。

「いえ、その。あの日連れ出してくださった悟さんも大変綺麗で、つい見とれてしまいました」
「あれ、遂に名前から惚気が聞けるとは」
「あ! えっと、そうではなく。悟さんの瞳に映る空が綺麗だったと言う……言葉足らずでしたね」
「へー……」

目を細めてニヤリとほほ笑む顔は、悟さんが何か突拍子もない事を言い出す前と少し被ってたじろいでしまう。音にならない声を出す口は数回はくりと動くにとどまり、言い訳が続かない。言い訳も何もないはずなのに。

「私に嘘つくんだ」

お酌をしていた私の手にするりと手を這わせて徳利を奪っていく様はどこか妖艶でどきりとする。悪い事はしていないのにしどろもどろになってしまうのは、見透かされているような眼に後ろめたさがあるからだ。
……――もう聞いてしまうのはどうだろうか。
頭をかすめる思いは、確かに今日硝子さんにお聞きしようとしていた事であった。

「実は……」



あの日、鮮やかに光る橙と波打つ青をみて、こんな日を人生で迎える事に夢を見ているのではという気持ちになった。けれども、そんな幻想的な状況もすべて、傍に居る彼が約束し、それを現実にするためにずっと動いていてくれたと思うと感謝の気持ちで胸が熱くなったのを覚えている。

面倒な生い立ちであるから諦めていることは多いと言うのに、彼はそんな私に少しでも希望が持てるようにと考えてくれているのだ。彼からの好意を一方的に受ける形になってしまって恐縮するが、きっと悟さんは勝手にしていることだからとそれを良しとはしないので、素直にお礼を伝えようと日々心掛けていた。しかし、あの日は景色に目を奪われてそれどころではなく、そればかりか久しぶりにサングラスを着けて居ない悟さんの瞳にも心を奪われてしまって言葉を失ったのである。

自分の事の様に喜ぶ目線に、なんとも言えない気持ちが込み上げたことは今でも鮮明に思い出せた。

勿論いい意味であり、うまく言葉を紡げない私に悟さんは不思議そうな顔をしつつもほらと空へ目線をうながしてくれたのだ。きっと私がいろんなものに感激していると思っていたのだろう。間違いではないが、それだけではなかった。

そうして、あの日からというもの、何度か悟さんに対して挙動不審になってしまったことも認めざるを得ない。なんだか、あの日を思い出してどうにも心がざわつくのだ。
くすぐったさを感じる心と、上手く言葉にできないもどかしさ故であろうか。悶々と悩むうちに、夜に共寝をする際も余計な事を考えてしまって寝つきが悪くもなったのはここだけの話である。

やはり、あの日感じた愛しさは友愛などではなかったのではないか。その考えが何度も頭を掠めては、自身の無さに口を噤む事しかできない。そこで、彼のこともよく知る硝子さんにお聞きしようと考えていた次第であった。


「……――ということでして」
「吊り橋理論ってやつだな」

ばっさりと言い切った硝子さんに、「つりばしりろん……」と幼子のような返答をしてしまう。そんな私に、少し笑みを向けてくる硝子さんになんだか揶揄われている気がして恥ずかしさが込み上げた。

久方振りの語らいついでとばかりに先日の出来事を相談することにしたが、よした方が良かったであろうか。未だに、恋心が芽生えたのか自分でも明確には解りかねる状態でいうには照れくささが拭えないのである。
暑くなる頬に手をあてて、熱さを逃がそうとするがうまくいかない。一方で、尚も冷静に話してくれる硝子さんをみると次第に心も落ち着くので助けられる気持ちもあった。

「心理学の話だよ。今回の事だと、綺麗な景色を見た時のドキドキをアイツへの恋愛感情と誤認したんじゃないかってこと」
「誤認……気のせいということですか? というより、やはり恋愛感情なんでしょうか」
「まぁ、気のせいでもなんでも人間なんてそういう効果の積み重ねで人への気持ちが変わるモノなんだから、名前が恋だと思うならそれは恋だよってこと」

手酌でお酒を注いで目線は此方に向けない硝子さんは、すっかりお酒に魅入られている。硝子さんらしくて微笑ましいが、先程の話に結論を着けたいのも本心だ。何処か納得のいっていない顔をしていたのだろう、私にお酌を示した硝子さんはクスクスと笑い始めてしまった。

「硝子さん、私を揶揄って遊んでます? それともお酒のためだけに来ました?」
拗ねたように言いながらも、突き出された徳利に自分のお猪口を近づける。
「悪い悪い。我ながら無粋な返しだったなと思ったよ」

注がれたお酒に少し会釈をしてから、少しだけ口を付けた。あら、おいしい。騙されたかのように感動してお猪口を見つめていると、更に前からクスクスと笑い声が続く。

「花より団子ならぬ恋より酒だな」
「普通にお酒を楽しんだだけですよ」

こほんと咳ばらいを一つして体勢を立て直す。そうして真面目な顔をする私に、硝子さんは少し落ち着いてからこう言い放つのであった。

「色々言ったけど、結局いつか名前はアイツに惚れてたと思うからそれが今ってだけ」

その後は、いくつも用意されたおつまみに舌鼓を打ちながら、なんてことはないようにおめでとうと言われてしまい、一気に気が抜けたのは秘密である。