生者に捧ぐ歌
遠くでミンミンと虫の鳴き声がする。あれはどうやら蝉というものらしい。
今年になって津美紀さんたちが来た関係で、この家に増えたいくつかの子ども向け書籍の一つを思い出した。いきもの図鑑というもので、私がほとんど外に出たことが無いというと、本を指差しつつ教師さながら教えてくれるのだ。
そんな2人も夏休みという期間が終わりを迎え、名残惜しくも数日前に自宅に帰り、悟さんも未だに任務が忙しいため、一人の屋敷が物悲しく感じてしまう。
使用人は変わらずいるので、女中たちの仕事を邪魔しない程度に声をかける日々である。女中たち曰く、未だに建物の外は暑い日差しが強く差し込み、彼女らも外に出るのは一苦労のようだ。自宅へと帰ってしまった子供たちは大丈夫であろうか、少し心配しながらみるともなく窓を見つめる。
「皆さん無理なさらないでくださいね」
「痛み入ります」
「奥様もいつもでしたら体調を悪くされる時期ですので、何か変化があればいつでもお申し付けくださいませ」
気遣いに心からの感謝を示しつつ、一週間ほど前の暑い夏の日を思い出した。
というのも、今年の夏に初めて夏の日差しというものをみたからなのである。
恵くんはどういった説明を受けているのか分かりかねるが、津美紀さんには足や目が不自由であることや体が丈夫ではないために外に出ることを控えていると伝えてあるので初めの頃は大層心配させてしまった。
そういった経緯からか、あまりにも世間を知らない私に対して彼女は熱心に色々な事を教えようとしてくれる。
その一環で、少しでも夏らしさを感じてほしいとの鶴の一声により、窓を開ける事は出来ないかと提案があったのだ。
「うーん、まぁ網戸越しなら大丈夫か」
丁度恵さんの稽古が終わったらしい悟さんが、少し考える素振りをしながら此方を見やる。
正直、窓もわざわざ全面磨りガラスにしている徹底っぷりなので、良しとはしないだろうと思っていたのだ。
「本当ですか」
「名前は暑さに弱いからちょっとだけ! あと、僕が居るからトクベツね!」
「悟くん優しい!」
「もっと褒めていいよー」
子供同士の様な掛け合いにくすくすと笑ってしまう。
暑さに弱いという方便のようなそれには、津美紀さんへの配慮も感じられて有り難い。
因みに、恵くんは私たちを見やりながら隣でソファに身を投げ出し、我関せずと息を整えていた。稽古と言うものは余程大変らしい。盛り上がっている2人をそこそこに、女中の何方かに飲み物を追加で持ってきていただかないとと後ろに目線を向けた。
その時、急に覆いかぶさるように影が差し、あっという間に肩と膝裏に腕を回されて横抱きにされてしまう。
驚きで声を詰まらせると、悪戯が成功したような笑みを湛えた悟さんの顔がすぐ近くにあった。先程の行動に気付いていたのか、リビングの扉傍に控える女中に飲み物を頼みつつ窓辺に近づいてゆく。
「ここからどうぞー」
ゆっくりと下ろされ、座るのを介助された場所は、窓辺から1人分ほど離れた場所であった。
直ぐ傍に津美紀さんも駆け寄ってきて、よかったねと笑いかけてくれる。
一方で、先程の話を聞いていたのだろう使用人の方々が急ぎ駆け寄ってきて窓の一部を開けられるようにと準備を始めた。何だか大事になってしまい申し訳なさも感じる。
しかし、周りはどこか楽し気で、つられて此方も心が躍ってしまうから単純なものだ。
「わぁ、すっごく日差しが強いんですね……熱気も」
「だからね、夏は外に出てもすぐ疲れちゃうんだけど、プールに入ったら楽しくって忘れちゃいそうになるの」
網戸の向こうには、縁側の先に初めて見る小さな中庭が青々と夏らしさを伝えている。いつもよりも鮮明に聞こえる水琴窟の音と共に、網戸を超えてもわりと湿度を含んだ熱気が押し寄せてきた。
中庭が小さい事と、網戸から少しだけ距離を置いて座っている為空は垣間見えないが、燦々と中庭に降り注ぐ光が如何に外が暑いのかを視覚的にも伝えている。
そうして、そんな太陽に負けないくらい隣できらきらした可愛らしい笑顔をみせてくれる津美紀さんは、楽しい思い出を振り返っているようだ。
プールというものは知らなかったが、どうやら夏に水浴びをすると言うことで、学校の授業にもあるらしい。
いつの日か悟さんから送られてきた沖縄の写真が思い出された。あれは海だったが、きっとああいうことなのだろう。
「楽しそうですね、ちょっと羨ましいです」
「名前さんも一緒にプール入れたらいいのにね」
すこし残念そうにする彼女の顔が、物理的にもうっすらと陰った。
「今回はここまでね」
ゆっくりと閉められていく窓に、再び視線を向けて今一度外の風景を脳裏に焼き付ける。少しの間でも新鮮な心地になって大層楽しかった。
その思いも込めて、津美紀さんに向き直りありがとうございますと声をかける。不思議そうな顔の彼女に再び笑いかけて頭を撫でると、照れくさそうな顔を向けられた。津美紀さんはどうやらこういった触れ合いが得意ではないらしい。可愛らしいのでたまにしてしまうのだが、これは心に秘めている。
私たちを見た悟さんも、何処か楽しそうにしていたのが鮮明に思い出された。
……――つい数日前まで続いていた日々が既に懐かしくなっているが、網膜に焼き付いた日差しは未だ鮮明である。きっと今日もあの日の様に暑い日だが、子供たちは学校というところに行っているのであろう。
1人哀愁に浸っていたが、私も彼らを見習って日々の作業に努めなければと頭を振り現実に向き直った。
冴に声をかけて、介助されながらゆっくりと腰を上げる。さて、和室に行こうかとリビングの出入り口に近づいたときに急に扉が横にスライドし、黒い影が現れた。
「びっくりした、ただいま」
「お、かえりなさいませ」
進行を塞ぐように立っている悟さんに、驚いて声が詰まってしまう。今日は帰宅する日であっただろうか。思い返したが、2日程先であったように思う。
不思議そうな顔を浮かべていたせいか、悟さんが柔和な笑みを浮かべる。
「なんだか名前が寂しそうにしてるって聞いたから早めに帰ってきちゃった」
驚いて声を発しようとした口が閉じられないままはくりと動く。そのまま、はっとして横を見ると口元を隠して小さく笑う冴がいた。
恥ずかしさに悟さんを見れないまま、顔が赤くなっていくのを感じて感嘆詞が小さく零れおちる。
「何処か行こうとしてた?」
にこやかに上から降る声に、和室に……と弱々しく返すことしかできない。冴から伝わっているなら、悟さんもそれが嘘だとは思っていないであろう。そんなに子供の様な仕草をしてしまっていたのだろうかと、未だに恥ずかしさから熱が引きそうになかった。冴には何でもお見通しだったのである。
「今日は折角早く帰れたからソレはお休みして名前がしたい事何かしようよ」
「……わかりました」
改めて顔をあげると、楽しそうな悟さんの綺麗な瞳と久しぶりにぶつかった。なんだか意地の悪さが増した気がして、少しだけ拗ねた声になってしまったのは許されたい。
一方で、そんな私をみてくすくすと笑い声をあげている悟さんがいるので顔の熱は更に長引いたのであった。
「あの、改めてなんですが、お仕事で疲れておられるでしょうし、ゆっくりお休みにしませんか?」
やっと熱が引いた顔に、念のためにと確認で両手を添えながら頭を回す。少しずつ冷静になると、貴重なお休みだろうに私のために無為にするのは如何なものかと思い直したのである。
「いいけど、何と明日もお休みでーす」
「珍しいですね」
学生時代から聞かされていたが、呪術師とは初夏からが特に忙しいらしい。一方で、悟さんは夏が終わりに近づいても毎年忙しそうにしているので――と言っても彼は通年忙しいのだが――未だその時期は継続中のはずなのだ。
加えて今年は、恵くん達のこともあるからと、いつの日か電話越しに相当無理を言っていたのをきいていた。そうして、できうる限りは家に帰る様にしてくださっていたのを私は知っている。
だというのにどうしたことか、1日半もお休みがあると言うのだから驚いてしまう。
「そ! だから明日はゆっくりするとして、今日は寂しんぼの名前と何かしたいなーって」
「悟さんっ」
「ごめんごめん、拗ねないで」
揶揄ってくる悟さんに少し語気を強めてしまったが、致し方ないであろう。確実に揶揄いの顔をしているのが伝わるのである。
その顔のまま誘われるように元のソファに戻っていく。
少し乱れた感情を落ち着けながらその誘いに従うと、彼も一息つくように横に腰を下ろした。
「2人も居なくなったし急に静かになると寂しくもなるよね」
しみじみと呟く声に、多少の疲れを感じる。
無理をしているのではないかと顔を覗き込むが、笑顔を向けられるばかりで心の奥まで読み取ることが出来なかった。曖昧な返事を返しながらじっと見つめ続ける私は、何処か滑稽である。
そんな私を気にする素振りもない悟さんは、ふっと息を一つ吐き伸びをしながら上を見上げた。
「僕も暫くは忙しいから会える時が少なくなるし、急だけど今日はその分できる限りの我儘ききたいなって」
「我儘……ですか。直ぐには思い浮かばないんですが……」
呆然としていたに近しいので、突然の提案に狼狽えてしまう。その内容も併せてだが。
我儘と言うならば、私が依頼した訳では無いにせよ、既にこの家を用意して頂けただけでも十分すぎる程感謝している。それに加えて何かを強請るのは如何なものかと思うのだ。多くを望みすぎている気がする。
「じゃあ夏らしい事いくつか挙げていって、気になる事でもやってみるってのはどう? 次の休みには夏何て終わってそうだし」
しかしながら、わくわくと此方を催促する彼は逃がしてくれることはないらしい。こうなった悟さんは止まらないことを、既に理解してきている自分がいるのである。
「詳しくはないんですけど、頑張ってみますね」
一生懸命に案を出すしかない。この時の私は、頭を切り替えてそれに集中していた。
何故なら、余りにも思い浮かばないからだ。
「その意気その意気」
「えっと、夏祭りと花火とプールと……海?」
「夏祭りと花火は出来そうにないけど……プールならできるかも?」
「そうなんですか?」
「うんうん、ちょーっとまってて」
夏休みの期間に、津美紀さんから学んだ行事を指折り数えてみた。案外、咄嗟に思い出せるものが少なくて困ってしまったが、いい案も出せたらしい。
ほっと安堵の息を吐きだす私を他所に、悟さんは使用人さんたちへと相談に行ってしまう。
何だか急展開になってしまっているが、本当に良かったのであろうか。できれば、悟さんが少しでもゆっくりできるものを提案したかったと言うのに。
少しの不安を感じながらも、先程の彼の様に天井を見上げていた私が、その後この時の提案を後悔するとは思っても居なかった。
□ □ □
「あ、あの、悟さん」
「何ー?」
「これはその……間違っていませんか?」
「何にも間違ってないと思うけど」
薄い扉越しに行われる問答は、無慈悲にも私に分の無いものであった。曇ったガラス越しがなんとも心もとない。
脱衣所に居る私は、先にお風呂の中に入っている悟さんが、此方へ来ない様取っ手を抑えつつ懇願するほかなかった。ここへ連れてきた女中たちは、悟さんの指示により私を着替えさせた後、追加の依頼として退室を促された後だ。先程、少し申し訳ないという顔と共に出ていってしまったのである。
「ま、待ってください、服を着ますから」
「水着着てるでしょ?」
「これは、下着同然です!」
つい、声を荒げてしまってはしたないとは思うが、此方も羞恥心でいっぱいなのできっと今回は許されるであろう。
プールならばできると言った悟さんの指示により、使用人たちへ水着を調達するようにと指示がでたらしいのだ。水着というもの自体を知らなかった私は、実際のモノに着替える時になってやっと己の失言に気付いたのである。
「みんな着てるから大丈夫だって」
「な、なにが大丈夫なのか分かりかねます」
「うーん……取り敢えずあんまり薄着で居続けると良くないからせめて中入りな」
中から聞こえる軽やかな声に対して、自身の声が震えてしまうのがわかる。
どうしても折れそうにない私を心配して、妥協案を提示してくる彼は、少し困り果てているらしい。困らせたい訳ではなかったが、どうしたらいいのか迷ってしまう。
そうこうしているうちに痺れを切らしたのか、私が手を緩めていることを察して、突然隔てていた扉が開け放たれた。と思うと、中に持ち込んでいたのだろう上着をばさりと肩にかけ、それごと体を掬われてしまう。
「じゃあこれ肩にかけとけばいいから」
「あ、りがとうございます……でもあの、せめてスカートのようなものは」
「入っちゃったらわかんないよ?」
きょとんと私を見つめる悟さんは、心底不思議そうである。
私が変で、外の皆様はこんなものなのであろうか。疑問が頭を擡げたが、詳細はわからないため言い返すこともできない。
何より、扉の先に居た悟さんは、普段家で過ごす時と同じで真っ黒なサングラスをかけており、感情を読み取りにくかった。一方で、サングラスのお陰で少しだけ羞恥心が和らぐのもまた事実である。と言っても、彼曰くよく視える瞳は遮るものがあっても呪力の流れがみえているらしいのだが。そこはそれ、此方の心情的な問題なのである。
それでも、どうしても、気になってしまうことがある。
「……気持ち悪く、ありませんか」
言葉を詰まらせると同時にサングラスから視線を逸らし、同じ黒色の自分の脚へ目線を向ける。
彼には、こんなに全てを晒したことが無いので、不安が押し寄せて仕方がない。サングラスの隙間からこの脚が見えてしまったら……と、考えると流石に気が気ではないのだ。
不安に満ちる一方で、近くから視線を感じる。おずおずともう一度黒いサングラスへ顔を向けると、口元を和らげた悟さんがいた。
「これも含めて名前でしょ。僕は綺麗だと思ってるんだけど」
米神にこつりと頭を寄せられ、まるで言い聞かせるように囁かれる。
距離が近くて気が動転しそうな中でも、悟さんが真剣に伝えようとしてくれていることは犇々と感じることが出来た。例えば、これがただの建前であったとしても、こうして伝えて接してくれる彼に私は心が救われる思いがするのだ。
「ありがとうございます」
恥ずかしさもあるが、ここは素直にお礼を言うことにした。未だ引け目を感じる私に、行動で大丈夫だと伝えてくれることは何と心強い事であろうか。
初めて出来た友人でもある彼だからこそ、更に信じようと思えるのである。
「解ればよろしい!」
「ふふっ、先生みたいですね」
「まぁね」
軽く応える彼は、少し巫山戯るのだから力が抜けてしまう。くすくすと笑う私をゆっくりと運びながら、いつも入っている湯船に一緒に入ってゆく。
どうやら、お湯の温度は温めらしい。
「普段のお風呂と変わらないかもだけど、どーですか?」
「不思議な気分です」
「本当は水なんだけど、体冷えても困るからね」
そうなのか、とまじまじ水面を見つめる。長く入っていても上せることは無いだろう温度と、未だ横抱きされている非日常感が、羞恥心をほんの少し上回った。
だからか、ふと疑問も浮かんでくる。
「因みに、本当に外の方々はこの水着で海にも入られるんですか?」
「そうだよー」
「凄い世界ですね」
本当に、どうしてこの格好で屋外に出れるのか。心底疑問である。
今は、悟さんが用意していた上着を胸元で引き寄せて着ているため、脚以外は隠れているから平静に近付けている。しかし、それもなく不特定多数が居るだろう屋外に出るというのは、自身の想像の範疇から大きく逸れていた。
「こうやって入ってたら名前も気にならないでしょ?」
「まだ、恥ずかしいですよ」
肩まで湯船に浸かっているからか、悟さんはどうということのない風に訊ねてくる。
しかし、湯船の中は透明で見えている上に、彼との距離が近いこともあり、はたと現実に戻り羞恥が襲い来るときがあるのだ。
「他の事してないからだって、ほらおいで」
未だぎこちない私からするりと離れた悟さんはしかし、左手だけは離さずに前に進む。
ゆっくりと浴槽の底に降ろされた足が、引かれる手につられて一歩前に動いた。
「えっと……」
「ほら、水の中だと普通に歩けたりしてちょっとは楽しいかなって」
「確かに」
普段、歩く際は松葉杖を使ってるが、あれも長く使うには体力が伴わない事が多い。更には、杖に体重をかけている脇が次第に痛くなる事もあるので、1日を通してみれば座って過ごす事が比較的多いのだ。
一応、この屋敷に来てからは動ける場所も増えたので、なるべく歩くように心掛けてはいる。それでも、普通の方より歩くことが少ないだろう私が、松葉杖を使わずに歩くというのは、今までの人生で殆ど無かったことなのである。
更に一歩と踏み出す足は、水の抵抗を受けて放漫な動きになる。
ぬるま湯は肩ほどまであり、動くたびに水中で揺れる上着を右手で胸元に留めていたので、バランスが取りにくかった。慎重に前へ進みつつも、動かない側の脚を前に出す時は更に注意深く水面を見てしまうのだ。
「っ!」
「おっと」
前に出した足が、着地をする際に上手く底を捉えられずに体がずるりと沈みかける。
焦って力の加減が分からず、先導されていた左手に力が籠り、右手も上着を離して同じようにその手を掴んだ。声にならない声が喉から溢れかけた時には、悟さんが私の両手を引き上げつつ、もう片方の腕で脇を支えてくれているではないか。
そこからは、ゆっくりと傍に寄せられて大丈夫かと顔を覗き込まれてしまう始末だ。恥よりも何よりも、安堵の息が零れる。
「すいません、足が滑ってしまいました」
「ゆっくりで大丈夫だから」
居た堪れない気持ちで顔をあげると、尚も悟さんは優しく微笑んでくれていた。
後で浮き輪も持ってこようか、ご機嫌な呟きにこちらの頬も緩むと言うものである。再び向き直ってお礼の言葉を告げると、どういたしましてと仰々しく返されて、そこからは2人の笑い声が軽やかに浴室に響いてゆく。
ある夏の1日の、楽しい思い出である。