桂冠の大詩人

桂冠の大詩人



あの日から何度か乞われて料理を食卓に並べる機会があった。いずれも気恥ずかしさと喜んでくださったときの嬉しさが綯い交ぜになり、未だ慣れそうにはない。
そうした日々が過ぎて行き、年の瀬になった現在。以前に相談があった通り、子供たちが我が家に訪れていた。
今日は二人のためにハンバーグを作ることになっているので、キッチンにて料理長に手助けをしてもらいながら準備をしている最中である。

「名前さん!」
「わぁ、津美紀さん。どうかされましたか?」

先程までリビングに居たはずの彼女が、急に右側から声をかけてきたので驚いてしまった。どうしても、視界の関係で右からの声掛けは驚いてしまうのだ。
そんな私に気付いて、申し訳なさそうにする津美紀さんには大丈夫だと声をかけておく。私の言葉にほっとして本題を思い出したのか、気を取り直す様に此方に顔を向けてきた。

「何かお手伝いすることないかなって思って」
「後は焼くだけなので、今日はお任せすることが無さそうですね……明日のご飯をいっしょにつくりませんか? 何が食べたいか考えておいてもらえると嬉しいです」
「じゃあ、恵と一緒に考えてくるね」

元気な返事と共にリビングへ戻るきらきらとした笑顔が微笑ましくて、つい使用人たちと顔を見合わせて笑ってしまった。
本日、悟さんは急な任務で帰りが夜中になるとのことなので、夕食は三人でとなっている。

今朝、私が夕食を振る舞う――と言っても、一部だけなのだが――と伝えると、二人共少し驚きつつも期待を込めた眼差しを向けられた。この日のためにと練習をしていたハンバーグだが、お二人の期待を思うと少し緊張してしまう。
実際、目の前に並んだ料理を前に、二人が口をつけるまで様子を窺うことしかできなかったのである。

「どうでしょう」
「おいしい」
「美味しいです!」

緊張した面持ちで二人の反応を待っていると、素敵な笑顔が返ってきたではないか。練習した甲斐があったというものだ。

「お口にあってよかったです」

ほっと一息をついて食事を再開するのもつかの間、少しの違和感を覚える。決して悪いものではないのだが、ふと気づいてしまったのだから仕方がない。
しかし、内容が内容であったため、今は頭の片隅に追いやりハンバーグを一口頬張る。美味しい。後で練習に付き合ってくださった方たちにお礼を言わなければ、そう思いながら食事を続けた。



□ □ □



「あの、硝子さん……」
「んー?」
「お忙しいところ恐縮ですが、相談事がありまして」

そう切り出したのは、数日前の違和感と再び向き合う為に、友人と電話をした時である。
明日が大晦日と迫る年末のため、今夜は悟さんも既にこの家には居らず、これ幸いと硝子さんへ電話を掛けたのであった。初めは他愛無い話をしていたが、このままではいけないと本題へと舵をきる。

「改まってどうした」
「相談というより確認になってしまうのですが」
「五条の事?」
「……はい、ご明察です」
「ちょっとまって、珈琲淹れる。面白そうだからじっくり聞くよ」

こういった事をお話しするには彼女が適任だと考えたのだが、少し娯楽として楽しまれている様である。しかしだからこそ、此方としても変な力が抜けるのを感じた。
こういった距離感が今はありがたいのだろうなと独り言ちて、彼女が落ち着くまで静かに待った。遠くでカチャカチャと音がするのが心地よい。少しして、戻った彼女がそれでと先を促してくる。

「実は最近たまに料理を作っているんです。日頃のお礼と言いますか、色々なものを兼ねているんですけれど……」

電子機器の向こうから小さく相槌をうつ声が聞こえた。

「その延長で先日、津美紀さんと恵さんにも振舞ったんですが、悟さんの時と違ったと言いますか」
「ふーん?」
「お二人に喜んで頂けるのもすごく嬉しかったんです。でも、悟さんとの時は羞恥というか、褒められた嬉しさもあるんですがどうにも照れてしまって」

そうなのだ。あの日、褒められた嬉しさはあれど、悟さんの時の様な気恥ずかしさを感じることが無かったのである。顔の熱くなることが常であったので、褒められ慣れていないからだと考えていたのだが、如何やら違うらしいことが分かった。
これが違和感のきっかけである。

「それで?」

確信を突くような促しに、こほんと咳ばらいを一つして呼吸を整えた。自身の考えを吐露することに、

「大したことではないんですが、こういうことが好きであるということなのかな……と。やはり、私は悟さんが好きなのだと実感したんです」

そう、津美紀さんや恵くんには抱かなかった感情。これは、悟さんに対する好意から表れたものではないかと思ったのだ。思ったと言うより、確信を得たと言う方が正しいかもしれない。
今までにもあった“もしかしたら”が、比較することで浮き彫りとなっただけで、本当は自分自身でも気付いていた。ただ、本音を言うと今更どうやって接していけばいいのか分からなかったのである。

「へぇ、良かったじゃん」
「良かったんでしょうか? 日に日にこの事を伝えるのを迷ってしまうんですけれど」

此方の悩みに反して、軽やかな声が返ってきてしまう。確かに彼女からすれば状況が進展して楽しい事だろうが、当事者としては笑い事ではなかった。年明けに悟さんに合わせる顔が無い。

「何か心配事でもあるの」
「それが、そうやって自覚する度に一層気恥ずかしさが増してしまっていて……悟さんもこんな気持ちだったのに、私は酷い対応をしてしまっていたんですね」

羞恥も勿論あるのだが、彼がこのような想いを持ったまま一緒に過ごしていたのだと思うと多少の罪悪感も抱いてしまうと言うものだ。それらが綯い交ぜになり、悪化の一途をたどっている。
それに加えて何をそんなに迷っているのかというと、悟さんと一緒に過ごす中で私がなかなか思いに応えない間に、恋や愛が情に移り変わっていたらという不安が少しあるのも事実なのだ。
以前、硝子さんから言われたのだが、悟さんは私に特に優しいらしい。自身としても良くして頂いているのは実感している。しかしながら、それが彼の優しさ故なのかをはかりかねてしまうのである。

「この前も言ったけど、アイツのは自己満足で言っている節もあるから本当に気にしなくていいんだよ」
「そういうものですか?」
「そういうもの」

余程私が困っていると思ったのだろう、一息ついて仕方ないなとでもいう様に紡がれた言葉は、幼子に言い聞かせる様でもあった。

「まぁ、もし言うなら名前のタイミングで言いな。個人的に五条は男としてお勧めしないけど、名前の事を大事にしてるのは昔から知ってるから」
「はい」
「大丈夫だよ」

私が躊躇っている事柄を全てお見通しのように、その一言で優しく背中を押された。こんなに心強い応援はないだろう。
悟さんが帰ってくるまでにはまだ数日あるが、それまでにはきっとこの葛藤も決着を迎えるだろうと思えるほどには、この電話はとても手助けとなった。持つべきものは友である。
少し前向きになって、ゆっくりと体をベッドに横たえた。良い年末になりそうだ。



□ □ □



どうしたものか、脳内という小さな部屋で何度も反芻される悩みは答えを出せないままでいた。

現在は年も明け、恵くんたちも家に帰った後である。
年末に勢い付いたのが何処へやら、日に日に喉の奥へと仕舞われていく言葉に機会を失っていくのを感じていたのだ。

「ねぇ、何かあった?」
「……え?」

余程浮かない顔をしていたのだろう。そんな日々が続いたある日、耐えかねた様に悟さんから声がかかった。今は就寝前ということもあり、二人でベッドへと入ろうとしたところであったので不意打ちにぽかんとしてしまう。

「もしかして、まだ僕の家から電話きてたりする?」
「えっ? あの、なんのお話で」
「ずっと浮かない顔してるから、僕がアッチに顔出してる間に子供の催促電話でもあったのかと思って」

突然何の話かと思えば、思わぬ方向の話で更に気が動転してしまった。どうやら彼には筒抜けであったらしい。きっと、以前電話中であったのを見られた時にでも知られてしまったのだろう。取り敢えず弁解をしなければと一呼吸ついてから見つめ返した。

「いえ、そのようなお電話は頂いておりません」
「そう……ならいいけど、前にやめろって言っといたから、もしまたきたら言ってね」

ベッドの上で向かい合いながらそっと手に添えられる温もりに、不謹慎ながらもドキリとしてしまう。

「はい、ありがとうございます」

そろそろ切り上げなければと、不自然にならない程度で手を抜いて布団に手をかける。
と、それを阻止するように今度は肩に手が回るのだから驚きで固まってしまった。

「で?」
「……?」

にこやかながら逃がさないとでもいう様な圧を感じられて、返答に困って視線を逸らす。
残念ながら、今この瞬間に伝えられるほどの勇気は持ち合わせてはいないのだ。

「何をそんなに浮かない顔し続けてるの」

それでも尚、悟さんは気になるようで日々の体調確認同様に、頬に手を当ててじっと見つめてくるではないか。

「体調悪いなら医者呼ぼうか?」
「いえ、これは体調が悪い訳では無く」
「だろうね、顔色は良いもん」

分かってますとでも言いたげなそれは、私の逃げ道を更になくすものでもあった。どうしても逃して貰えなさそうな手が、未だに頬を離さない。
これはもう致し方が無いのだろうか。根負けの形にはなってしまうが、あまり長くこうしていてもお互いに埒が明かないのは明白であった。

それでも、緊張で言葉が詰まるのは確かなので、浅く小さく息を吐きだす。

「悟さん、おはなしが、あります」
「……うん?」

一瞬続く言葉が思い浮かばずにはくりと空を伝えた。
意気地の無さが出てしまって、少し自分に情けなくなってしまう。

「そんなに悩むことなら無理しなくていいよ?」

余りにも深刻そうに見えたのか、彼の方から譲歩の声がかかったが、ここまで来て引いてしまうと本当に伝えるタイミングが分からなくなってしまいそうであった。
引き留める様に頬に添えられた手を取って、思いが伝わればと両手で握りしめる。

「大事な話なんです、とっても」
「そう……」

彼がどのような顔をしているかわからないが、今は目の前にある大きな手を見つめる他にない。顔を見たら最後、何も言えなくなりそうだからである。それでも、背筋は伸ばすようにと努める。

「まずは、私をあの部屋から連れ出してくれてありがとうございます。素敵なお家も、新しい出会いも……それに、外の世界まで見せて頂けました」 

きっと突然のことで彼は驚いていることだろう。なんの返答もないのが良い証拠だ。

「心からお礼を申し上げます」
「急に改まってどうしたの」
「まずはお礼だけでも伝えたいと思いまして」

少しの戸惑いと、顔を窺う気配を察知して、更に首を垂れるのがとまりそうにない。
このままではペタリと折りたたまれてしまいそうである。

「それで、お礼もなんですが、一緒に過ごす中で……」

口が乾くのを感じた。
悟さんの手に触れる自分の手が先程から冷たいのは無視が出来そうにない。
言葉にするとはこれ程までに緊張するのかと浅く息を吐いて、手に軽く力を込めた。

「私、悟さんの事を好きに、なり、まして」
「……」

返答がない。
視界に捉えている悟さんの体は微動だにもしていない。

「もしかして、今更だとご迷惑でしょうか? 確かに、お待たせしすぎたことはとても酷い事だなと自覚はしていて」

恐怖からだろうか、普段では考えられないだろう捲し立てるような口調で弁明を紡ぎだす。
それと共に、心を落ち着かせるためか無意識に両手を離して、膝元へと引っ込めようとしてしまう。

が、しかし、その手は一回りも大きな手によって元に戻されることとなった。

「ほんとにほんと?」
「あっ、はい、ほんとうです」

急に手首を取られたと同時に驚きで顔を上げると、就寝前で露わとなっていた水色の瞳に視線がかち合う。
それも一瞬のことで、直ぐに抱き寄せられて彼の服が視界に広がった。

「……もしかして、外に連れ出した日? あれって自意識過剰じゃなかったんだ」

耳元で聞こえる独り言の様な小さな声に、動揺して目の前の胸元を押し返す。
分かりやすかったであろう自分にも、それを覚えている悟さんにも羞恥で顔が火を噴くように熱くなるのがわかった。先程までの冷たい体が嘘のようである。

「た、確かに、切っ掛けはあの日なんですが……」

呟かれた言葉に反応して、口は再び弁明の言葉を零していく。言い訳じみたそれに、ちゃんと伝えなければいけないと心の中の私が呵責するので、口を噤んで逡巡する。
当初の悩みはとうに無く、今となっては自身の想いをどう伝えようかという気持ちでいっぱいであった。そんな私を察してか、悟さんも静かに待っていてくれるのが分かる。

「でも、思い返したら、私はずっと悟さんからの愛情を貰っていて……烏滸がましい話ですが、それが当たり前の生活になっていたんだなって解ったんです」

それは、ここ数ヶ月特に思っていた事であった。

「そんな生活が、私はいつの間にか尊くて、愛しくて……気付いたら、こんなにも好きだったんだなぁって」

……――五条悟からみた彼女は、何処か付き物の落ちた清々しい顔をしていた。

目には透明な膜が張り、今まさに静かに頬を伝って、揺れる感情の行き場を探して溢れ出たかのようである。


「やっと、僕をみてくれた……好きだよ、名前」


そういって、私の両頬を包んだ手で、そっと涙を拭ってくれる。
心優しき友人は、今やっと最愛の夫となったようだ。

嬉しい。この嬉しさをどうやって伝えよう。ポロポロと零れ落ちる涙と共に、笑顔も溢れる。幸せを少しでもわかってほしくて、私も悟さんの頬を包んだ。
それと同時に顔を近付け、同じく笑顔を浮かべる口許にそっと口付けを贈る。口を離して、静かに瞼を開けると、すこし驚いた悟さんがいて、また笑ってしまった。今ほど、この右目が見えないことを惜しいと思う時は無いだろう。折角の驚いた悟さんの顔が珍しくて、両目でみれないことが残念に思うのである。

気が付けば、私の指にも一滴の雫が付いていた。