円卓のふち光る
さて、先日の相談から少し経つが、その期間に何度か帰宅した悟さんと邂逅はしている。その際は今までの生活が染みついているのか平静を装えていた。ように思う。
といっても、共寝をする際はやはり少し意識をしてしまいそうになっているのが現状だ。しかしながら、この家にきてからというもの彼と共に布団に入る際は拳ひとつどころではなく間をあけて寝て頂いているので、多少は心を落ち着けることができた。
それでも尚、不審がられていないだろうかと心配する一方で、未だ言語化しても良いのか分かりかねる思いが胸中を渦巻く。
そうして暫し自身の考えに浸っていたある日、夕方ごろに一人で和室に籠っていると後ろから声がかかった。女中の1人である。
急ぎなのか、すまなそうにしているのが気がかりだ。息を整えて入室の許可を告げると、一礼した後の顔にはやはり申し訳なさそうな雰囲気が漂っていた。
「奥様、お電話が」
「……ありがとう」
用件を聞いて何故彼女がすまなそうにしているのかが手にとるように分かる。どうやら私宛に電話らしい。珍しいこともあるものだが、珍しいからこそ電話の相手には当てがあった。
少し表情が硬くなるのを感じながら子機を受け取る。
「お電話代わりました、名前でございます」
出た瞬間に、相手からは刺々しい言葉が矢継ぎ早に紡がれる。傍に居る女中に聞こえやしないかとひやりとして少し耳から子機を離すが、やはり少しだけ声が漏れ聞こえてしまう。
この声もまた、最近の悩みの一つであった。
「いい加減跡継ぎの話は……」
「……そちらに住んで1年になりますよ」
いつも通りの声と言葉に、傍で心配そうに此方を見る視線には苦笑で返す他ない。これは何か月も前から度々ある電話で、五条家の方からの世継ぎを催促をするものである。勿論催促されることは理解できるのだが、色良い返事は絶対にできない。その為必然的に口が重くなってしまうのだ。
「はい……はい、承知しております。申し訳ございません」
いつも悟さんの不在時に丁度良く電話が来るため、相手方がそれを承知でということは薄々解っている。
この件に関しては言い訳できない為、穏便に話を終わらせるには謝るしかないのだが、これもいつもの通りの返答になってしまう。向こうからすると、これも面白くないらしいことがありありと伝わってくる。
四苦八苦しつつ応対をすること優に数十分は過ぎただろうか。体感のため分かりかねるが、万策尽きたという気持ちで電話口に聞き入っていると、すぐ隣に再度気配を感じる。何かと思えば先程とは別の女中が申し訳なさそうに一礼をしているではないか。
余程の事だと子機の口元を抑えて何かと尋ねると、彼女は更に配慮してか耳元に手を翳して小さな声で急用を伝えてくる。
「旦那様がお帰りに……」
「! 申し訳ないのですが、悟様が帰ってこられたそうで……」
勿論、この件で連絡が来るたびに悪戦苦闘していることは悟さんには伝えていない。ただでさえ忙しい彼の手を煩わせたくない思いが強かったのだ。相手側も悟さんに知られると良くないだろう。
そう思って電話口にも彼の帰宅を知らせると、言い足りなさを残しつつも早々に切り上げる返事が返ってきた。密かに胸をなでおろす。
しかし、運の悪いことに終話の音が聞こえると同時、後ろから声がかかった。言わずもがな、私の旦那様である悟さんだ。
「ただーい、ま?」
「おかえりなさいませ」
不思議そうに此方を覗き込む彼を見上げて、挨拶を返しながら傍に居る女中に子機を渡す。やはり不自然になってしまっただろうか。焦りを見せてはいけないので、平常心に努めて居住まいを正した。
「珍しいね、名前が電話なんて」
「えぇ、たまに連絡を頂くんです」
ぎくりと動揺しそうであったが、少し視線を外して口元に手を添えることで自身を誤魔化す。悟さんはこういうことに鋭そうだからいけない。
「へー?」
疑いの声と共に隣に座った彼はしかし、ふと空気を緩めて笑顔になった。
「まぁいいや。そういえば近々恵たちがくることになるよ」
「まぁ、楽しみですね」
「そう言ってくれてほんと助かる」
先程までの空気はいずこへか。ありがとうと言う言葉と共に手を取られてしまい、驚きに一瞬呆けてしまうほどであった。
私としては、電話の件を言及されないことは喜ばしいところではあるし、お二人がこの家に来て下さる事も喜ばしい限りなのだ。そんな私に尚も彼はお礼を言いつつ、今日はもうリビングにと手を引かれる。
素直に先導に従いつつ、ふと疑問が頭を掠めた。先程の電話があったように、悟さんはまだお仕事の途中のはずではなかったか。といっても、彼の場合変動することが常であるので今回もそれであろうが。
「そういえば、今日は早いお帰りですね?」
「今日から暫くはね」
嬉しそうな顔にこちらまで笑顔になる。多くても週の半分近くしか家に居ない悟さんが早い時間から帰宅できるのは稀なのだ。
「暫く……どれぐらいですか?」
「珍しく1週間ほどは」
「そんなに!」
想像以上に長い期間に驚きの言葉がついて出た。顔を合わせる機会が増える事ということは、悟さんの事を考える時間も必然的に増えると言うことなのである。
悪い事ではないのだが、だからこそどうやって接していけばいいのか迷う瞬間が多い。それを思ってつい口を突いて出た反応に、悟さんは少しムッとした顔をする。
「なに? 嬉しくないの」
「嬉しいですよ?」
たまにどぎまぎしてしまう可能性があるけれど。
「ふーん?」
再度ジッとサングラスの隙間から覗く碧が此方を見つめてくる。
後ろめたい事はないが、胸の内を晒すことはでない状態なので言葉に詰まってしまうのだ。そうした私を知ってか知らでか、深く追求することはせずテーブルに着いてお茶を飲み始めた彼の興味は、もう違うことへ移ったらしい。気付けば夕食の時間、並べられた食事に手を合わせてお味噌汁を口にし始めていた。
話題が逸れたことにほっとする心とは裏腹に、いい加減決着をつけなければとも思うのだが、今更ながらに彼に伝えるにはまだ自身の言葉が乏しい事を重々理解しているのも確かであった。
ここ数日悩んだ末に、先に今までの感謝を行動で示すべきではとの思いも持ち始めてさらに足踏みしてしまっている節もある。できる事とは何があるのかと更に悩みの種を増やすところではあるが、必要な事に変わりはなかった。
様々な悩みが脳内という小さな空間で優先順位を競い合う。そうして取り留めもなく考えながら意識を外にやり、見るともなく手元のお茶を見つめていたところ、対面に居る悟さん手がいつの間にかピタリと止まっていた。
「名前本当に大丈夫? また体調悪いんじゃない?」
言葉と共に突然目の前が少し陰って、額に大きな掌が当てられる。いつも触れる少し冷たい手が、不意打ちのせいで心臓をドキリと驚かせた。
「だ、いじょうぶです」
動揺が声にも表れてしまっていけない。今日の私は本当に疲れているのか、如何やら言動に色々なものが出てしまっているように思う。きっと、悟さんも困惑していることだろう。
申し訳なさと、うまく出来ない自分に小さくため息がでた。
「今日は早く寝な、悪くなるといけないから」
「はい……」
落ち込んでいるとでも思われたのであろうか。先程まで少し身を乗り出していた悟さんは、腰を掛け直して苦笑を漏らしつつ心配の声をかけてくださった。
気恥ずかしさに咳ばらいを一つして、目の前の食事に意識を向けることにする。
□ □ □
「冴、少し相談があるの」
そう口にしたのは、先日の会話から2日ほどだった昼間の事だ。
私が1人で思い悩んでいてもただただ悟さんに不信感を与える瞬間が多くなるだけだと思ったのである。それならば、少しずつできる事から始めようと考えた。加えて、自身のみでは抱えきれそうにない事もここ最近で痛感したのも確かであった。こういう時は信頼のおける人物に頼るのが一番だと経験が言っている。
「……はい、”お嬢様”。なんでもお伺いいたします」
「もう、冴ったら。貴女には敵わないわ」
「名前様が幼い頃からお傍に居ましたから」
「そうですね」
やはり経験に間違いはなかったようだ。冴には本当に隠し事が出来そうにない。子供の様に扱われるのも頷けてしまって顔が綻んだ。
子供の頃から姉の様に頼りになる彼女には、何でも相談ができるので本当に助かっている。頼りすぎているとも言っても過言ではない。
「それで、どんなお悩みでしょうか」
何でもお聞きしますよと笑顔が物語っている。気付けば人払いもされていて、女中たちには頭が上がらないばかりだ。
だからこそ、再度改まって冴に向き直った。内心を吐露すると言うのは多少の気恥ずかしさがあるので、務めて平静にと思うのである。
「実は、悟さんにこれまでのお返しがしたいんです。といっても、大層なものが出来るとも思わないのですが」
彼には結婚をする前からずっといろんな恩がある。先に、それらを少しでも何かで返すことが出来ればと思ったのだ。まだ完全には自信のない好意より、以前からお伝えしたかった感謝の気持ちの方が、自分としても伝えやすいと言う思いがあった。
「贈り物でしょうか。以前の様に外商へは頼まずですよね?」
「えぇ、だから頂いているものに対して釣り合いが取れないけれど……少しでもと思っているんです」
「少し時間を頂戴できますか?」
「勿論! 忙しいのにありがとう、私も考えてみますね」
物品ともなると、悟さんであれば大抵のものは自分で買えてしまうだろうから難しい。冴もそれが分かっているのか、一瞬考える素振りを見せたが答えは直ぐには出そうになかった。
暫くは何か案はないかとああでもないこうでもないと候補を出し合っていたが、ふとそれらが途切れた。その際に、お茶でもお持ちしましょうかと冴が席を立つ。久方振りに2人で話し込んでしまっていたようで、壁にかけている時計に目をやると幾分か針が進んでいるではないか。
羽目を外してしまったかと、気恥ずかしくなりながら冴の帰りを待つことになった。
そうして、彼女との会話に思いを馳せていると、襖の外から声がかかる。冴が帰ってきたようで、開いた先には湯気が立つお盆が傍らにあった。
少し寒い季節になってまいりましたからと微笑みながら、目の前の机に緑茶が置かれる。お礼を言って少し口をつけると、ほっと力が緩むのを感じた。
そこでふと、先日の悟さんの言葉を思い出す。
「そういえば、年末近くに津美紀さんと恵くんが来て下さるそうですよ」
楽しみであるからか、自然と頬が緩むのがわかる。あの可愛らしいお2人に会えるのは楽しみなのだ。
「準備してまいります」
「年越しがご一緒できるなら、お蕎麦もお節も一緒にたべられますね」
硝子さんはあの二人と気が合うだろうか。もしかすると予定をずらすと言うかもしれないが、それはそれで大人同士の時間を過ごせるので、私としてはどちらをとっても楽しみである。
年末に思いを馳せつつ、津美紀さんたちとはどうやって過ごそうかと考えていた時。以前のやり取りが頭を掠めた。
「……そういえば」
「どうかなさいましたか」
「お2人が来られた際にお食事やお洗濯はできる範囲でされていましたよね」
そうなのだ。
詳しくは聞いていないのだが、どうやら現在お2人は子供だけで過ごしているらしい。一度、この家に一緒に住んではと悟さんに言ったのだが、この家の立地の問題もあり現状維持で良いと言う話であった。
その為、生活の術を少しでも多くする意味でもできうる範囲の事は自分たちで動いたり、使用人たちに教わりつつ家事をしていたのだ。
「はい、旦那様からのご指示で私共はお手伝いやお教えしながらと」
「その時、お料理は殆ど傍で見ていることしかできなかったんですが、今度こそ挑戦してみる……というのは如何でしょうか」
調理場は料理長たちを含め人口密度が他よりも高い事や、細かく動き回ったり立ち続けることが難しいので、お邪魔にならない様たまに後ろから見守る程度にしていたのだ。
しかし、休み休みでもよいので、お料理に挑戦することはな敵わないかと考えたのである。
「立ちながらですと大変ですし、専用に椅子等をご用意すればあるいは……」
「ほんとうですか! もし実現するようでしたら悟さんにもお料理で感謝の気持ちを伝えられますし、今度津美紀さんたちともお料理できて一石二鳥ですね」
「奥様からの手料理であれば旦那様もきっとお喜びになりますよ」
津美紀さんたちとの事も考えていたが、先に1人で練習をして……と思った際に、真っ先に悟さんの顔が思い浮かんだ。彼のためにお料理を作ると言うのは、私自身ができる恩返しになるのではと思えたのである。
私の考えに、冴も素敵な案を出してくれて俄然やる気になった。今後が楽しみで、顔が綻ぶのがわかる。
「喜んでいただけると嬉しいです」
早速明日から設備を整えて行こうと、冴が動き出したのは言うまでもない。
□ □ □
「あれ? なんかいつもと味違う……?」
ギクリとした。
あの話から3週間程経って、悟さんと共に夕食を迎えたある日。人知れず固唾をのんで見守っていた悟さんから、ポツリと言葉が零れる。
「……お口に合いませんでした?」
「いや、美味しいけどいつもとちょっと違うかもってだけ」
口を一度開きかけるが、直ぐに閉じてしまう。
悟さんが口にしたそれは、ここ2週間ほどで料理長から手ほどきを受けて練習したお料理の内の1つであった。それを、何も言わず他のものと一緒にお出ししたのである。
美味しいとの言葉は貰えたが、料理人の腕の鈍りを感じさせる程度のものだった。初めてだからとの言い訳もできるが、悟さんに言い訳や嘘をついて食べ続けてもらうのは忍びない。幸いにも、下げるとしても一品だけだと決意をして、真実を明かすために再度口を開く。
「すみません、悟さんが先程お口にされたそちらの品なんですが……作ったのはいつもの方でなく私なんです、ですから、その……下げさせて頂いてもよろしいですか」
告げると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした悟さんが「え、やだ……」と言い出した。
やだ……とは、確固たる意思表示をされてしまったものだ。
「えっと、私が食べますので」
「いや、僕が食べるから、これは譲れない」
絶対意見曲げないからね、という副音声が聞こえてくる。
諦めてくれそうにない雰囲気に、渋々伸ばしていた手を下げると、悟さんは満面の笑みで頷いた。頷いたと思えば、これ見よがしに私が作った料理を口に放り込む。
「……意地が悪いですよ悟さん」
拗ねた声になってしまった気がする。
だって、私を見つめる目の前の悟さんが、大層嬉しそうな顔をしているからだ。
真っ先に空になった器を恨めし気に見ていたら、何を勘違いしたのか、おかわりをねだられたのは暫く忘れられそうにない。
「僕も名前のために料理しようかなー!」
「そんな、恐れ多いです。それに、これはお礼の意味もあって……」
唐突に頬杖をついて呟く悟さんに、食後のお茶を飲んでいた私は慌てて手を止めて恐縮してしまう。
彼は料理ができないとは思っていないのだが、忙しい悟さんに作って頂くということが余りにもイメージできなかったのである。
「何で遠慮するの……悲しいんだけど!」
しくしくと泣き真似をされては、二の句が継げない。
勿論、料理を作ってもらえるのは嬉しいのだが、当初の予定から逸れてしまう気がするのだ。
それだけかと言われると、それもまた違うのだけれど……。
でも、悟さんを困らせたい訳でもない上に、悟さんの料理は気になるので、折れるしかないのであった。
「……では、お願いいたします」
小声になってしまった私の声を聞いた時の悟さんは、先程の泣き真似が霞むほどに、顔を綻ばせて了承してくれる。
嬉しいのは私なのではないだろうか?
そう思ったが、ここは黙ってありがとうございますと感謝を伝えることにした。
「任せといて」
何がいいかな~と、早速携帯でレシピを調べ始める行動の速さには、更に笑ってしまった。2人で台所に立つ未来も、そう遠くない気がする。