霧中の心の

霧中の心の




その日は何やら、悟さんの機嫌が良かった。

仕事の忙しさが一区切りしたのだろう、秋も深まる頃になってやっと週に数日帰宅する彼を迎えるようになった時分。
それでも、一緒に晩御飯を囲むのも1週間近く振りで、悟さんが請け負った直近の任務の話を聞いて楽しんでいた時である。ふと、会話の流れが途切れて料理に舌鼓を打っている際に、目の前から視線を感じた。

「どうかなさいました?」

素直に疑問を口にすると、んーっと気のない返事が返ってくる。先程までの楽しそうな雰囲気はどこへやら、少し考え事をするかのようだ。
しかし、それもつかの間、何かを決心したのかよしという掛け声とともに、よくわからない提案がなされる。

「名前さ、来週出かける準備しておいてくれる?」

出かける……?
出かけるとは、外に出ると言うことなのだろうか。寝耳に水で返答に詰まってしまった。

「まだ外に出るのが怖いならいいけど……どうかなーって考えてたんだよね」
「はぁ……」

自身の考えが及ばぬ話であったので、普段ならばしないだろう返答になっていけない。品がなかったなと意識を目の前に集中し直した。
一方で、悟さんは通常運転の様で、突拍子もない申し出に驚く私が面白いのかニコニコと笑顔をみせて食事を再開している。

「本気ですか?」
「なに、信じてないのー? 結婚前に約束したでしょ、やっと準備が出来たからどうかと思って」

そう言われて、はたと思いだす。1年以上前になるが、そんな話をしていたなと合点がいった。
しかしあれは、この家に来る際に面の隙間から見えた空で叶えられたと思っていたのだ。

「突然のことで、どのように答えればいいのか分からないのですが」
前置きを挟んで、回らない頭を必死に動かしながら少しづつ言葉を紡ぎだす。
「もしも、可能であるならば……ぜひお願い致します」

外に出ると言ってもこの家の庭までということも考えられた。結局は、悟さんのみぞ知るというやつなのだ。この際折角のお話を無碍にするよりは、この流れに身を任せてみようと考えたのである。

私の返事がお気に召したのか「オッケー」と満面の笑みで答え、早々にご飯を平らげると傍に居た使用人にあれやこれやと今後の相談をし始めた。
自身より楽しそうにしている人をみると段々冷静さを取り戻すもので、ここまで来たら乗り掛かった舟だなと思うようにまでなっていたほどである。
来週までに何を用意すればいいのかは分かりかねるが、取り敢えず体調管理には気を付けておこうと頭の隅で決意をして、残りの食事へと手を付けた。



□ □ □



あの日から丁度1週間後、私は現在朱塗りの柱がある和室にて呪具を目の前にしていた。この家に来た時に見た以来の邂逅である。
如何やら本気で外に出るようだと、他人事の様に考えてしまう。未だに実感のなかったそれが、じわじわと形になってきているのを感じる。
高揚感か不安感か、ソワソワとしだした心を落ち着けつつ、横にいる悟さんを見ると、彼は彼で少しだけ不機嫌そうであった。
あの日同様、私にコレを着けてほしくない様である。といっても、着けなければどうにもならないのだが。

そんな悟さんはしかし、一つため息を大きくつくと、申し訳なさそうな顔をして「本当にごめん、少しの間だから我慢してね」と言いながら呪具に手を伸ばす。

余りの気の病み様に、少し可笑しくなってしまってくすりと笑うと、何笑ってるのと言われる始末だ。慌てて謝るが、悟さんにとってはこの見た目だけは許すことが難しいらしい。
何とか宥めて呪具を身に着け、さて紙の面をなったところで、遅ればせながらここまですると言うことは玄関先ではないのだなと思い至る。

気が動転していたためこの瞬間まで忘れていたが、今日向かう場所は未だに知らされていなかった。
多少の不安は残る物の、騎虎の勢いに任せて面を着けてもらうこととする。

「それじゃあ向かおうか」

どこへという言葉を再度飲み込み、是と応えて言われるがままにゆっくりと足を踏み出す。
朱塗りの柱とそこから続く敷居をゆっくりと越えて行く。緊張の一瞬である。超えた後も平時より逸る心音を誤魔化しつつ、悟さんの先導に続いて外まで足を進めた。
流石にここで聞いても良いかと一瞬足を止め、彼に目を向ける。

「悟さん、ここまで聞いてはいなかったのですが、今日は何処へ?」
「んー、内緒」

悪戯っ子のような楽し気な返答が、今は少しだけ憎らしく思えた。いつもの悟さんらしいと言えばそれまでであるが、流石に外に出ると言う通常では考えられない行事の時ぐらいはその性格を引っ込めて貰ってもばちは当たらないのではないかと悶々と考えた。考えることで不安を紛らわせようとしていたと言っても過言ではない。
そうこうしているうちに、あれよあれよと車までたどり着き、発車まであとすこしと言うところであった。

「ほ、本当に何処へいくんですか?」
「イイところ」

余りに不安になったため、前に座っているだろう悟さんへと声をかけると、語尾に歌いだしそうな勢いを垣間見せる返答が返ってくる。
此方としては、もう彼のいう事を信じつつ祈るしかない。何を祈るのかは分かりかねるが。

「緊張してるところ悪いけど、1時間半以上は車だから肩の力抜いたほうがいいよ」
「1時間半……」

意外と遠くへ行くらしい。
じわじわとせり上がる緊張感にできうる限り見て見ぬふりをして、次に呼ばれるまではと静かに過ごすことにした。


道中たまに振られる悟さんからの話に相槌を打ちつつ、幾分かすごしていると謎の緊張感も途中で緩みをみせた。それでも、他の方が静かなせいで緊張感が抜けきらないのも事実である。

時間が経つごとに、再度浮足立つ心に終止符を打ったのはそんな折であった。

「さーてと、着いたよ名前ー」
「あ、はい」
「外に出ようか」

何てことはないように発せられるそれに、一瞬ぴくりと体が揺れる。この後どうするのかを、私は何も聞いていないのだ。
周りの方も一緒に外に出ると、強く風を感じる。嗅いだことのない匂いも鼻を掠めたが、場所の見当などつくはずもなくそこに佇むばかりであった。

「じゃあ、手筈通り一旦ここまでってことで」

呆然とする私を他所に、悟さんは誰に向けてか朗々と語りかける。
手筈とはなんだろうかという疑問が頭を擡げている最中、誰かの手が首の紐にかかるのが分かった。

「名前、これからちょっと騒がしくなるから目を閉じてて」

突然の事に一気に冷や汗が流れているのを感じて、目の前から聞こえる声が半分ほど脳内で反響するように聞こえてしまう。
焦って手が右往左往するのを、悟さんだろう手に捉えられて縋る様に握ると少しだけ呼吸が出来た。

「急にごめん、でも名前は僕の術式のことも詳しく知らないから反対するかと思って黙ってたんだ。百聞は一見に如かずってね」
「あ、の」
「大丈夫。暫く僕が抱えておくから、いいよって言うまで目を閉じててくれたらいいだけ」

言い聞かせるような声に、混乱が収まらない脳内は打開策を出すより彼の声に従うことを選んだ。
今の私には家に帰ることも何もできない。悟さんが大丈夫だと言うのであれば、その言葉を信じるしかないのである。

そう逡巡した後にこくりと首肯して目を瞑ると、首に掛けられていた手が結界用の呪具を解くのが分かった。呪具を解くことでどれ程の事が起こってしまうのか分からずに、先程から握りしめている手と目に再びぎゅっと力を籠める。

「すぐに引き返して一定距離離れて」

指示を出す声が頭上から聞こえた時には、紙の面まで取られる感覚がした。無意識にヒュッっと喉が鳴る。
と同時に、膝裏に腕が回り、体が浮き上がるのも感じた。目を開けることが憚られるので想像ではあるが、悟さんの腕に座っているように思われる。

「ちょっとの間この体勢で許してね。腕、首に回しといて」
「はい……」

消え入りそうな声で返事をしつつ誘われるままに腕を回し、未知の行動に備えることにした。
次の瞬間には、体験したことのない浮遊感を感じ、少なからず身を竦める。

「はー、ほんと名前って人気者だねー。事前に綺麗にはしてた筈なのにやっぱりまだ数匹きた」

やれやれとでもいった風の言葉に、何が何だか分からず口をはさむことが出来ない。一方で、私は返答を口にするより先に、耳が呪霊らしき声を捉えて驚きに薄く目を開けてしまった。

そこに、異径がいる。

まず、自身が地上に浮き上がっていたが、それどころではなかった。それよりも、此方を目指す様に3つ程の呪霊たちが一直線に飛んできていたのである。
再びの驚きと恐怖。喉からは引きつる声が出るばかりであったが、直ぐに悟さんの大きな手によって顔を彼の首元へと引き込まれてしまう。

「まだ駄目だよ」

幼子に言い聞かせるような優しい声は、この場にそぐわない乍らも蜘蛛の糸の様に思えたのである。必死で目を瞑り、首をこくこくと小さく振って応える事しかできなかった。
どんどん近づく呪霊たちの声に、更に手に力が籠るのが分かる。
片や、動く様子のなかった悟さんは何事かを呟いたかと思うと、放漫な動きで歩みだしたのを感じた。


……――ふと、気が付く。
つい先程までしていた声が聞こえない。
何が起こったのかと不思議に思うも、先刻の事があるので目を開ける事は出来そうになかった。

「よし、これで暫くは大丈夫そうだけど……もうちょい上にいっておくか」

独り言を呟いた悟さんのもう片方の腕が、私を抱え込むように回ってくる。安心感が増すと同時に、またもや浮遊感に襲われ少し動揺してしまった。

びくりと動く私を見てか、クスクスと笑い声が聞こえてくるではないか。普段の悟さんが垣間見えて、脱力するのを感じた。
そうして緩んだのを狙って、「よっ」という掛け声とともに以前された事のあるお姫様抱っこと言うものにゆっくりと抱え直されてゆく。

未だよくわからないながら、その時の私は悟さんから声がかかりそうな雰囲気を察していた。
ドキドキと訴えかける鼓動が、自身の体に響くのを再度自覚したのである。



「目、もう開けてもいいよ」
やっと出された許しを聞いて、左目に感じていた明かりの暖かさを手繰り寄せる様に、そろりと瞳を開いた。

その瞬間、その光景に息をのむ。


そこには、雄大な空と海が広がっているではないか。


今までも、数える程には携帯等の画面越しに見てきた風景が、肌で感じると、こんなにも別のモノのように思えるのかと驚いてしまったのだ。
空が、視界の端まで広がっている。雲が動き、風を肌で感じて、日の光が煌めいているのである。海は波を打って、潮風というものを運んできてくれていた。時刻の関係で、夕日になりかけている太陽を受けて、地平線の近くが輝き、眩しくて目が眩む。
私は、久々に右目が見えないことを怨んでしまった。
色んな気持ちが綯い交ぜになり、言葉を失って惚けていると、不意に顔に影がかかる。右側からの動きのため、少し反応が遅れたが、気付けば悟さんが私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?」

私が余りにも言葉を発さない為か、少し心配になったらしい。いけない、まずはお礼を、と気を取り直して、悟さんに目線を向ける。

「あの、本当にありがとうございます……なんとお礼を言っていいのか」

悟さん越しにも空が見えて、言葉を紡ぎながらも、また心ここに在らずといった返答になってしまった。そんな私の状態を確りと理解しているのか、彼にふっと力を抜いたように笑われてしまう。少し恥ずかしさが込み上げるが、外の世界を全身で感じている興奮と相まって、次第に羞恥心は薄れていった。


「きれい……」

言葉が、何かを考える前に溢れ落ちる。
夕日も、その夕日に照らされる海も、浜辺も、全てが人生で初めての事で、とても尊い。しかし、それ以上に、目前にある夕日に照らされた悟さんの瞳が綺麗なのだ。まるで海のように綺麗な青に映りこみ、混ざる夕日の色が、きらきらと耀いて目が離せない。
無意識に手を伸ばしてしまう。
悟さんの驚いた顔に、少し現実に戻り手を引こうとするが、それを悟さん自身が止める。

「いいよ」

優しく許しを与えられて、再びそっと手を近付ける。瞳を縁取る白い睫毛も、今は少しオレンジが混ざり、キラリと輝いているようである。その近くにそろりと指を添えて、目元を少しなぞってみた。
やはり、とても綺麗な宝石だ。

「満足した?」
「あ、はい……」

少し揶揄う調子を込めて此方を見る宝石に、はっと意識を取り戻し再度じわじわと羞恥心が顔を覗かせた。目線を下に向けると、その先にある喉元がクツクツと音をたてて追い討ちをかけてくるではないか。

「すいません、あの、つい」
「いいってば、そんなことより海見なくていいの? 夕日も綺麗でしょ」

言われてもう一度地平線に目を向ける。
陽の光が、眩しくて痛いほど。嗚呼、なんて幸せなんだろう。染々と、感慨に耽ったが、それもこれも悟さんのお陰なのだと思うと、感動故か、狂おしい程の愛しい気持ちが湧いてくる。
これは、友愛だろうか?
それとも、これこそが愛するというもなのだろうか?

今は未だわからないが、この思いが少しで伝わればいいと、肩に回された手に、そっと自分の手を重ねて力を込めた。



□□□



「そろそろ夜になるから戻るよ」

夕日と地平線の距離は、まだあるという時間。
私の事を考えてか、夜になる前にできうる限り家に近付ける様にと、早々に立ち去る旨を示唆された。
きっと夜でも、悟さんならば何とでもなるのだろう。でも、初めて外に出て、先程呪霊に邂逅をした私の事を考えると仕方がないのだ。何より、本当に夜になると収拾がつくのかわからない。大人しく頷く私に、悟さんは「また今度ね」とほほ笑む。

今度。
今度もあるのだ。
嬉しくて、緩んだ顔が恥ずかしくて、そっと悟さんの胸元に擦り寄った。

私は、この日の事を一生忘れはしない。