真珠断層
彼は誰時。
9月といっても、この時間は空気が少しだけ冷えて、暑さを感じずに過ごせる時間だ。
普段ならば、熟睡しているだろう時間。
少しの足の疼きを感じて、不意に意識が浮上した。
自然に目覚めたからか、寝起きにしてはやけに頭が冴えている。
そう言えば、似たようなことが過去にもあった様な……と、思い出に思考を向けていると、部屋に繋がる一直線の廊下から、こちらへ近づく足音が聞こえてきた。
1年半程前は、冴が慌てて走ってきた音がしていたとことを思い出して、また何か起こったのだろうかと、静かに体を起こす。
此方に用が無ければそれはそれ、このまま少しだけ起きていようと思ったのである。
足音は一定のリズムを保ち、明確に此方へ近づいてくることを如実に伝えていた。
この部屋を通りすぎたとて、先には家の者が居るので、そちらへの用向きかもしれない。
等と、とりとめの無い事を考えては、足音に耳を澄ませていると、私の部屋へ続く部屋の襖の前で、足音が止まる。
やはり、侍女の誰かが来たのだろう。
丁度よく目覚めたものだと考えていると、襖の開く音が聞こえる。
畳の上を滑る足音が落ち着いている事から、緊急では無いらしい。
欠伸をひとつ。
少し瞼が緩んだ瞬間、静かに開かれた襖の先、薄闇の中に浮かぶ白いシャツが目に焼き付く。
所々黒い汚れがある様に見えるが、服自体は以前に見覚えがあるものだ。
下には、背景よりさらに濃い黒の学生服が見えている。
驚きでだろうか、何故かつい下に視線を落としてしまったが、今一度、辿った目線の道筋を辿る様に首を上に向けてゆく。
そこには、ここ数ヶ月姿を見なかった夏油さんが居た。
「やぁ、久しいね」
にっこりと笑う彼の顔にも、服にあったような”汚れ”が見える。
あれは何だろうか?それに夏油さんがこんな時間になんの用で?様々な疑問が渦巻く中、一拍置いて曖昧な返事をするのがやっとであった。
良く考えればおかしいのだ。
否、元よりこの時間の訪問がおかしいのは解っている。
それは捨て置くとしても、彼が訪れるとして、先に扉を開くのは冴であるはずだからである。
客人のみを歩かせるようなことを、彼女は決してすることはない。
だからこその違和感。
今、屋敷中が静寂に包まれ、聞こえるのは自身の息遣いだけであった。
一人静かに思考の海へと現実逃避をしかけていた頃、目の前に立つ夏油さんが不意に足を踏み出す。
結界の組紐に手をかけて、その下をにこやかに潜ってくるではないか。
私はと言えば、その緩慢な動作を呆然と見つめていることしかできない。
彼が潜りきって、再度目を合わせれば、はっと正気に返り身構える。
「今日は、どうされたのですか」
少し声が震えていやしないかと心臓がざわりと総毛立つ。
なぜこんなにも不安が煽られてしまうのだろうか?ただの友人の訪問ではないか。
頭の片隅でそんな声も聞こえた。
「久しぶりに苗字さんに会いたくて」
にこやかな彼の眼は、途端にスッと真剣味を帯びた気がしたのだが、気のせいかもしれない。
「私も、最近会っていなくてどうされているのかと思っていたところでした」
近頃の本音を漏らせば、夏油さんはこれはうれしい事を言ってくれると柔和な笑みを浮かべてくださった。
だが、本題はここではない。
そもそも、相手の目的がわからないのである。
「それで、本題に戻ってしまいますけど、今日はどのような用事でこのような時間に?」
努めて落ち着きをはらった声をだし、手で着座を勧めた。
夏油さんはそれを手で制し、あくまで立ったまま話を進めていく。
「この時間の来訪は申し訳ないと思うよ。ただ、どうしても苗字さんに提案したいことがあって」
早く伝えたくて、こんな時間に来てしまったんだと、そう彼は続けるのである。
また、頭の片隅で声がする。今度は聞きたくないと叫ぶ声だ。
何か、いけないことが、今まさにここで始まろうとしている。
そうであるとしか思えず、少し意識を逸らすため、手近な間接照明に近づこうと体を動かす。
その瞬間だ、目の前の夏油さんが、私の肩に手を伸ばし、その動きを止めてきたのだ。
「どこへ行くんだい?」
「……枕元の照明をつけようと」
まるで、何かを咎めるような視線に、結局照明を点けることは終ぞなかった。
静かになった私を確認して、夏油さんは「今日は時間が無いから手短に終わるよ」と静かな声で伝えてくる。
それに頷きでしか返せない私は、気付かぬ内に、この空気感に気圧されていたのだろう。
「さて……」
静かな空間を仕切りなおす声が、目の前で発せられた。
「苗字さん、この狭い部屋から出たいとは思わないか?」
「あの、質問の意図が良くわからないのですが」
「嗚呼、急に申し訳ない、ただ、こんなところに籠っていては詰まらないじゃないかと思って」
崩れない笑顔にどう反応するのが正解かと逡巡する。
しかし、この質問には答えは1つしかない。
「私が外に出たら、呪霊に取り込まれてしまいます。何より、この呪物としての体を目当てに呪霊が集まることで周りに被害が及んでしまう、そんな事に比べたらこの部屋に居る方が幸せです」
「そんな偽善が聞きたいんじゃないんだけどな」
やれやれとでも言うように、此方へ目線を合わせるためにしゃがむ彼を見つめ続ける。
次の言葉を促す視線に、少し息をのみつつも、思考を巡らせ、答える事しか許されていない。
「偽善では、ありません……確かに、昔は外に憧れましたし、今も多少の憧れはあります。それでも、今死にたくもなければ、周りに危害を加えたいわけでもありません。この呪いは、私が背負うべきものだと理解しているから、この部屋からは出ません」
□ □ □
「…は?」
「何度も言わせるな、傑が集落の人間を皆殺しにし、行方をくらませた」
高専の廊下には、緊迫感が張り詰めていた。
五条と向かい合う夜蛾からただならぬ雰囲気であることは、誰の目にも一目瞭然な程である。
そうして、その雰囲気が、この話が現実であると伝えている。
「聞こえてますよ、だから「は?」つったんだ」
「……傑の実家は既にもぬけの殻だった。ただ、血痕と残穢から恐らく両親も手にかけている」
「んなわけねぇだろ!!」
様々な情報が立て続けに聞こえては、回りの空気に吸い込まれていくようだ。
そのまま吸い込まれてなくなればいいのにと、何度も頭の中で否定の言葉がリフレインする。
しかし、そんな五条に追い討ちをかけるように「悟」と声がかかるのだ。
「俺も……何が何だかわからんのだ」
「――っ!!」
こんな夜蛾の姿を、一体今までどれ程の人が目にしたことがあるだろうか?
その事実に、五条は言葉を失う他ない。
「それと、これは向こうから連絡があったんだが……悟、お前の婚約者の苗字名前の所にも傑が現れたらしい」
「なっ……!?あいつは!」
「落ち着け、彼女は無事だ」
頭痛を押さえるような手を制止するように変えて、五条を宥める夜蛾の表情に嘘はないように見えた。
「集落から直接苗字家へ向かったらしい。その後に実家にいったようだ。苗字家の人間は数人負傷者がいるものの、死者は出ていないと報告があった」
本当に欲しい情報に対しての要領を得ない内容に、焦りが生まれる。
なにかを隠しているのか?
そんな疑問を察したのか、夜蛾は知り得る内容を続けるのだ。
「余りにも様子がおかしいと、苗字名前本人から俺宛に電話があったから間違いはない。ただ、傑の事は未だ伏せて居たくてな……彼女も家の中が慌ただしいようで、詳しくは、後日此方の者が伺う事で手を打ったんだ」
「此方の者って?まさか上の連中の指示で人向かわせる訳じゃ無いですよね。そんなことしたらソイツ尋問し始めるだろ」
「彼女の事も考えて、硝子に任せるつもりだ。安心しろ」
だから落ち着けと、二度目の忠告を口にする夜蛾はしかし、自身もこの緊急事態で混乱していることを自覚している。
何処で間違えたのか?失くしたジグソーパズルのピースの穴を茫然と見つめる気持ちになりながら、五条を部屋へ帰し、各所への連絡へ動くのであった。
□ □ □
都内某所。
「説明しろ、傑」
家入からの連絡を受け、人通りの中向き合う二人がそこに居た。
「硝子から聞いただろ?それ以上でも以下でもないさ」
「だから術師以外殺すってか!?親も!?」
事も無げにいう夏油は、凪ぎのような顔をして、五条へと説明をするのみである。
「親だけ特別というわけにはいかないだろ。それに、もう私の家族はあの人達だけじゃない」
「んなこと聞いてねぇ、意味ない殺しはしねぇんじゃなかったのか!?苗字だって殺さなかっただろ!」
「苗字名前は呪物同然であると同時に、”見える”側だからね。環境的に見たことがないだけであれば猿とは違う。だから、殺さなかった」
“誘い”はフラれてしまったけどねと、溢す夏油の表情に変わりは見えない。
「ただ、今回の殺しについて、意味はある。意義もね。大義ですらある」
「ねぇよ!!非術師殺して、術師だけの世界をつくる!?無理に決まってんだろ!!」
怒鳴り声が響くが、夏油は歯牙にもかけないような態度を崩すことはなかった。
それでも、この話は終わらせるわけにはいかないのである。
「できもしねぇことをセコセコやんのを意味ねぇっつーんだよ!!」
「傲慢だな」
「あ゛?」
それまで、静かに聞いていたと思った夏油が、五条の声に被せるように喋りだした。
少し考えるような顔をしていたが、考えが変わることは無いらしい。
「君にならできるだろ、悟」
一刀両断するような台詞は、まるで真理を突いているようで、それまでの関係を切り離すようなものであった。
その後に続く言葉たちも、もう、決意の揺らぎを感じられないものばかり。
そうして消え行く最中、最後に彼はこう言い残した。
「苗字名前には謝っておいてくれ、少し怖がらせただろうからね」
そんな背中に向けた拳は、やがて重力に従い、静かに下ろされたのだ。
□ □ □
「傑が離反した」
あの早朝の出来事があった日から一週間は後になっただろうか。
携帯が震えたと思えば、五条さんからの着信であった。
出てすぐに告げられたのは、解りきった、けれど受け止めがたい内容だ。
硬質さを感じる声音で紡がれる話を、聞き漏らさぬようにと耳を澄ませる。
「そっちに硝子はもう行った?」
「えぇ、3日程前に」
「そう……」
そう呟いたきり、暫しの沈黙が続く。
此方としても、何を言えばいいのかと畳の目を見つめながら思案するが、こういう時のいい言葉が浮かばない。
経験が圧倒的に足りないと悲しむのは簡単だ、そんな事よりも、彼の心境が心配でならないのである。
纏まらない考えの中、右往左往としていると、突然長いため息が聞こえた。
「取り敢えず、無事で良かった……直ぐそっちにいけなくて悪いけど、硝子以外の奴が訪ねたら追い返せよ」
言い聞かせるような言葉には、静かに是と答え、次の言葉を待つ。
そんな雰囲気を察してか、五条は語勢を緩めて続きの言葉を紡いだ。
「あの日、どんな会話したの」
それは、先日硝子さんにも聞かれた質問であった。
その時を思いだし、変わらない回答を伝える。
「夏油さんに、外へ行かないかと誘われました」
「それで?」
促す声は、尚も柔らかだ。
「勿論、お断りました」
「それだけ?本当に?」
一瞬息を呑んだが、「それだけです」と返して、今度は天井を見上げる。
「……そ、まぁ今度会った時に詳しく」
一方的に切れた携帯を見つめて、声は震えていなかっただろうかと思い返した。
少しだけ、次に五条さんと会う時を思うと、何とも言えない気持ちになる。
しかし、その日の連絡を最後に、五条さんからの連絡や接触は数ヵ月無くなったのだ。