フィディウスの天秤
夜半。
唐突に目が覚めた。
というのも、遠くが少し騒がしい気がしたからである。
風が強い日だったであろうか?
戸なのかは分からない。
ガタガタと鳴った様ではあるのだが、直ぐに止むだろうとまた微睡んだ。
しかし、そんな一寸の間も、とたとたと鳴る廊下の音で覚醒を促される。
よく聞くと、小さいながら遠くから此方に向かう話し声も聞こえるではないか。
どうしたのだろうかと思っていると、先に迫っていた足音が私の部屋の前で止まった。
「名前お嬢様」
声量を抑えた冴の声がする。
こんな時間に珍しい。余程の事なのかと、夢現であった意識からしっかりと寝醒める事にした。
「何かあったのですね」
言葉を零すと、静かに襖を開けながら冴が現れた。
「お休み中に申し訳ございません、少し、その……」
「言ってください」
「お嬢様宛にお客様が」
私宛に、こんな時間に……?
誰だか分からないが、外から私宛に尋ねる人がいるとしたら3人しか思い浮かばない。
その人達も、普段であれば事前に連絡がある。
「何方でしょうか?」
「五条様が」
□ □ □
「……待ちを……お待ちくだ……」
先程から聞こえていた声が、徐々に近づいてくる。
気付いた冴が、失礼しますと断りを入れて元来た道を帰って行った。
何が、あったのだろう。
五条さんが来ただけであれば、なぜこんなに騒がしいのだろうか?
逸る気持ちを抑えながら、着替えは今更できないので、襟元を正した。
正座するように布団から体を出して、裾も静かに整える。
……そうでもしていないと、この状況に押し流されそうになるからである。
現実逃避のそれだ。
そうこうしている内に、複数の足音がすぐそこ迄来た。
お待ちくださいという侍女達の声を遮るように、襖が音を立てて開かれる。
「あ……すみません、今このような格好……で……」
見上げた先には、学生服をボロボロにして、血に濡れた五条さんが立っていた。
静謐な狂気が眠っているかのような目の奥が、静かに此方に語りかける。
そんな雰囲気に気圧されて、動けない私を他所に、五条さんはズカズカと私の方へ近付いてくるではないか。
そして狼狽る私を嘲笑うように、目の前まで辿り着いた。
「ねぇ、こっちみて」
「は……」
い、と返事をする前に、屈んできた五条さんの手が、軽く私の顎を持ち上げる。
次の瞬間には、目の前に五條さんがいた。
唇が触れあう。
はじめての口付けは少し血の味がした。
□ □ □
その後の五条さんといえば、混乱するわたしを他所に、私の膝の上――正しくは布団の上――に気絶するように突っ伏してしまった。
拓けた視界には、驚いて呆けていた冴や他の侍女が映り、少し冷静になる。
下をみて顔を覗けば、幼い顔で寝息が小さく聞こえるので安堵した。
「お嬢様っ!」と冴が慌てるので、口に人差し指を添えて静かに、と微笑む。
「冴、ごめんなさい、お布団を用意して貰えるかしら……とても、お疲れのようだから」
声をひそめて伝えると、冴は一瞬戸惑いを見せたが、私の意を汲んでか先程までの動揺を切り替え、しずしずと準備の為に退室してくれる。
他の侍女にも的確に指示している辺り、正気に戻れたようだ。
それを見届けると、再度見てしまうのは五条さんだ。
先程の様子から、きっと意識は朦朧としていたのだろう……覚えていなければ此方も忘れておこうと思った。
もしかしなくても、別の人と勘違いをしている可能性も大きい。
そんな思考に耽っていたからか、無意識にさらりとした白髪に手を伸ばす。
一撫でして我に返ったが、普段出来ない行為故か、好奇心が少し膨らみ、心の中でごめんなさいと断りをいれて更に手を伸ばす。
さらり、さらり……五条さんの熱も少し感じながら、寝息に合わせて軽く撫でて行く。
……ふと、おでこ付近を掠めた瞬間、指先が少しの隆起を捉えた。
どきりとして、そっと前髪を持ち上げる。
そこには、おでこの一部に大きめの切り傷がひとつ、血は止まっている状態で主張していた。
やはり、何かあったのだ。
けれど、今だけは、どうか心行くまで休んで貰いたい。
冴や他の使用人が静かに準備が終わるまで、私の手はゆっくりと動くのだった。
□ □ □
黎明の時が訪れる。
夜中の事が嘘のように、すっきりと意識が浮上して、ふと横を向いた。
そこには、軽くではあるが血をぬぐわれた五条さんが、隣の布団に横たわって居る。
あまり触ると、意識が覚醒しそうになってどうしても体は清められなかったのだ。
ゆっくり起き上がると、怒涛の数時間が思い出され、それを追いやる様にかぶりを振る。
きっと、余りに日々を穏やかに過ごしている為か、朝の閑寂さに余計なことを考えてしまうのだろう。
少し気分転換しようと、入浴でもと思い冴を呼ぼうかと思った時であった。
隣でゆっくりと瞼が開き、空色が顔を覗かせた。
「……」
一瞬天井をみて逡巡したと思った瞳は、チラリと此方を向いた。
「おはようございます、五条さん。ここは苗字家ですよ」
当たり障りのない言葉しか掛けられないが、きっと彼はこの言葉を望んでいると思ったのだ。
それを聞いて、五条さんはゆっくりと上体を起こした。半覚醒に思えるので手を貸そうとすると、片手で制されてしまう。
「あぁ、うん、大丈夫。それは理解できてる」
「お風呂、入られますか?着替えならば横に用意してあるものをお使いください」
「それはあとで……それより俺、昨日高専で事情聴取受けた後の記憶ほぼ無いに等しいんだけど……なんかした?」
「ぼろぼろのお体でここに乗り込んでこられましたよ」
少し苦笑しながら告げると、五条さんは「ふむ?」と少し考えた後、「あーやっぱり徹夜続きはつれぇな」と頭をかきながら独り言ちた。
「迷惑かけたみたいでごめんね、あとで冴さんにも言っとく」
「いいえ……では冴達を呼びますね」
部屋の隅にある文机へと擦り寄ろうとすると、気付いた五条さんが立ち上がり先回りをしてくれた。
「これ?」
机の上にあった使用人室へつながる電話を指さして聞かれたので、静かに頷く。
如何にも、昨夜から五条さんの雰囲気が以前と違うので、様子を伺いながらになってしまっていけない。
おそらく、彼が疲れているからだろう。
そんな風に逡巡している間にも、五条さんは何事かを電話口で話し終えて、此方に向き直った。
瞳の色をみて現実に返り、少し視線を逸らすと同じ色に行き当たる。
「着けててくださったんですね”組紐”」
「ん?これ?」
左腕を軽く掲げた五条の手首には、白と青と金で編まれた組紐が綺麗なまま在った。
「それには私の呪力を編んでいますから……この家にくるには、代々の私の様な者が呪力を込めたモノを身に着けて居ないとたどり着けませんので」
「あぁ、そういう仕掛け」
「今までは送迎の方に似たものをお渡ししていたのですが、こうやって無事たどり着けていますし、今度からは不要ですね」
少しお道化て言ってしまった気もする。
そんな私を通り越して、遠くを見つめるような眼をしながら、「そうだな」と応える五条さんは、どこか心底疲れ切った顔をしていた。